◆ ロマ書の学び(254)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年九月二八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  これ凡ての物は神より出(い)で、神によりて成り、神に帰(き)すればなり、栄光とこしえに神にあれ、アーメン。
ロマ書一一章三六節

  「自分の人生だから、誰と結婚しても構(かま)わないではないか。」という考えは、とんでもないことである。神様は、あなたが神様を信じる人といっしょになるように願(ねが)っておられる。私達の教会も、本当に神様を信じ、神様を呼(よ)び求め、神様の御栄(みさか)えをあらわすものでなければならない。それは牧師だけでなく、あなた自身がその自覚(じかく)を持たなくてはいけない。

  神様の永遠の目的は、被造物(ひぞうぶつ)すべてが、まことの神様を礼拝し、神様に賛美をささげることである。もしあなたが、教会で出会う人々を、商売のために使おうと思うなら大間違いである。教会は決して商売繁盛の道具ではない。

  私達は、神様の御栄(みさか)えを拝するためにここに集められている。神様をほめたたえ、人々にまことの神様を知ってもらうために集められている。伝道者や説教者だけがそれを伝えるのではない。あなた方自身が、毎日の生活の中で「私を造(つく)って下(くだ)さり、罪の世界から救って下さったまことの神様を礼拝して、さいわいな日々を送っています。」と、伝えるべきではないだろうか。

  神様によって選(えら)び出された、というだけで本当は十分である。しかし、神様は私の健康をも、全部管理して下さる。何とすばらしいことだろう。私自身、大病をわずらって、生命というものが医者の手中にないことを知った。

  日本の医者は間違っていると思うことがある。威張っている医者もいる。ぜんぜん患者の身になっていない。 私は三ヶ月に一回、聖路加病院に行く。聖路加病院の入り口には大きなルカ(本当の姿ではなく、想像上の姿)の彫像があり、そこには「神様の栄光のために」と記(しる)されている。

  私達が病院にお見舞いに行ったり、病人を慰(なぐさ)める時にも、私達の祈りが「たとえ私が大きな病気を抱(かか)えていても、神様、あなたの御栄(みさか)えをあらわすことが出来ますように。神様がお与(あた)え下さったこの試練(しれん)を通して、私がまわりの人々に神様の御栄(みさか)えをあらわすことができるように生(い)かして下さい。」でなければならない。

  旧約聖書に出てくるヨブは、試練にあった時、何と言っただろうか。

  エホバ与(あた)えエホバ取(と)りたもうなり、エホバの御名(みな)は ほむべきかな。=iヨブ記一章二一節)

  であった。

  たとえトラブルが続いても、あるいは家庭生活に不幸な経験があったとしても、すべて神様の御手(みて)のうちにあることを日日に思いおこそうではないか。  (続く)

 


◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章一〇節
 幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者。
          天国は その人のものなり。

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