◆ ロマ書の学び(256)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一〇月一二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

  これまでロマ書の九章から一一章を通して、イスラエルの犯した間違い、そして神様に対する不従順の罪について学んできた。これらの章を簡単に振り返ってみよう。神様によって世界の民族の中で、唯一(ただひと)つ選(えら)び出されたユダヤ人。神様から、彼らは全世界の人々に神様の愛と、憐(あわ)れみ、福音を伝(つた)えるべき責任を託(たく)されていた。しかし、彼らはその責任を怠(おこた)ってしまった。そのことに対して、神様はしばらくの間(あいだ)(神様にとって一日は千年のごとく、千年は一日の如(ごと)し≠ニいう基準である)ユダヤ人以外の者が大胆(だいたん)に自由に神様を呼び求めることができる時代「恵(めぐ)みの時(とき)」が与(あた)えられたわけである。

  ロマ書九章において、イスラエルがかつて神様からいただいた頃のさまざまな約束と特権(とっけん)が思いおこされた。にもかかわらず、一〇章を見るとそのイスラエルの民は神様から与えられた特権を無駄(むだ)にしてしまい、自分達のためにだけに使おうとして特権をひとりじめしようとした。この大変よくばったかんがえは、神様にたいする不従順であり、不信仰の罪(つみ)としてしるされている。イスラエルの人々は、そのために神様のご計画からはみ出してしまい、挫折(ざせつ)をするのである。

  一一章において、イスラエルがふたたび回復(かいふく)される時がしるされている。神様は、イスラエルの人々をもう一度神様の働きをになっていく民族としておえらびになられる。そして彼らをお用(もち)いになる時代がこれから先(さき)におこってくるという預言(よげん)である。 世界の戦争、あるいは戦争の勃発(ぼっぱつ)をもたらすようなできごとの多くが、中東地域(ちゅうとうちいき)、あるいは、あのイスラエルという国を中心として動(うご)いている、ということが私たちの時代からふりかえってみてもよくわかる。

  イスラエルとエジプト、イスラエルとヨルダン、イスラエルとアラブ諸国というように、絶(た)え間(ま)なくイスラエルがその紛争(ふんそう)の一角(いっかく)をなしていることは、皆さんもご存知だと思う。また現在、世界の経済を牛耳(ぎゅうじ)るのもユダヤ人であり、政治を動(うご)かすのもユダヤ人であることを思うと、このイスラエルという国、ユダヤ人の動きを無視(むし)して世界を論(ろん)じることはできない。いいかえるなら、この世の終末(しゅうまつ)はイスラエルの動向(どうこう)が大きな鍵(かぎ)を握(にぎ)っている。また、神様がお選びになったイスラエルの民(たみ)に敵対行為(てきたいこうい)をする民族は必ず痛手(いたで)をこうむる、ということが聖書の中でくりかえし書かれている。「イスラエルを呪(のろ)うものは呪われ、イスラエルを祝福するものは祝福される。」という神様の大きな摂理(せつり)の御手(みて)が働(はたら)いている。  (続く)

 


◎ 暗誦聖句 エレミヤ記三三章三節前半
なんじ我(われ)に呼び求めよ。我(われ)なんじに応(こた)えん。<yテロ前書五章七節

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