◆ ロマ書の学び(257)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一〇月一九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  もちろん私達は今、イスラエルの政治家がやっている全(すべ)てのことに賛成(さんせい)をし、拍手(はくしゅ)をしているわけではない。早くイスラエルの人々が本当(ほんとう)のメシヤ、イエス・キリストを信じてくれるように願っているわけだが、今のイスラエルの指導者(しどうしゃ)、イスラエルの民族はイエス様を信じていない。だからこのように世界の紛争(ふんそう)が起こり、また争(あらそ)いが争いを生(う)む、という悪循環(あくじゅんかん)の中にイスラエルの民は苦しんでいる。しかし、それはやがて終(お)わりを告(つ)げる、ということが聖書を通して教えられている。

  神様はなぜ、そのようにイスラエルの国をおもく扱(あつか)っておられるのか。それは、神様のご性質(せいしつ)によるところが大きい。神様は信仰の父といわれるアブラハムにお与(あた)えになった契約(けいやく)、あるいは後(のち)のダビデ王にお与えになった契約を絶対に神様のがわから反故(ほご)にはなさらない。神様は約束(やくそく)をやぶることをなさらないのだ。

  人間は契約を交(か)わしてもその契約は破(やぶ)られてあたりまえ、というところがあるから、契約は何度もくり返される。人間は簡単に契約を交わし、簡単に約束を破(やぶ)る。ところが神様はいちど約束をなさったなら、その契約は最後(さいご)までまもってくださる。人間の場合、一方が契約を破棄すると、もう一方はその責任から解除される。人間は何度となく神様との契約をやぶった。それにもかかわらず、神様のがわではそのおたてになった約束(やくそく)、契約(けいやく)を最後まで、徹底的(てっていてき)に、とことん守(まも)ってくださる。そういうことで、イスラエルの民(たみ)は今の時期(じき)は苦しみの中にあるが、やがて回復(かいふく)されるときがくる、とロマ書(しょ)一一章にしるされている。

  全(すべ)ての人間が、神様の前にあって神様を理性的(りせいてき)に知り、認(みと)めることができる状態(じょうたい)にありながら、神様を「神」としてあがめようとしない。それが、聖書でいうところの「罪(つみ)」である。若い頃、教会に行くと毎週のように牧師や宣教師が「人間はみんな罪人(つみびと)です。」と言うので私も反発(はんぱつ)を感じた。「私はそんな悪いことはしていない。泥棒(どろぼう)をしたり、人を傷(きず)つけたことはない。」と。

  「罪」という言葉を聞くたびに、私は反発をし抵抗(ていこう)していた。当時(とうじ)、誰(だれ)も私に個人的(こじんてき)に教えたり導(みちび)いてくれる人はいなかったので、私は仕方(しかた)なく本を読んだりしていたわけだが、やがてロマ書を読んでいくうちに一章から三章において「確(たし)かに聖書にあるように、私は罪深い人間だなあ。」と知ることができた。外の姿形(すがたかたち)を見たり、あるいは行(おこな)いをとおして、あの人は罪人(つみびと)だ、と言うことは、まずないだろう。きっとあなたも、この社会においては模範的(もはんてき)な市民(しみん)であろう。聖書はそのようなことを罪と指摘(してき)しているわけではない。聖書の「罪(つみ)」は、人間の心(こころ)の内側(うちがわ)にある思(おも)いだ。          (続)

 

 

 


◎ 暗誦聖句 ペテロ前書五章七節
また もろもろの心労(こころづかい)を神に委(ゆだ)ねよ。
 神なんじらのために慮(おもん)ぱかり給(たま)えばなり。

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