◆ ロマ書の学び(258)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一〇月二六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  心の中にある思(おも)いは、「自己中心(じこちゅうしん)」であるということ。そして、「天地万物(てんちばんぶつ)をお創(つく)りになった神様を神(かみ)としてあがめない」ということが「罪(つみ)」である。ロマ書一章にこう書かれている。神様がお与(あた)えになった理性(りせい)をもって、人間は神を認(みと)めようとしなかった。自分達が理性を使って考えれば、神の存在がわかるにも関(かか)わらず神を認めようとしない、と。さらに聖書は、愚(おろ)かなる者は、心(こころ)のうちに神なしと言(い)えり。≠ニ書いている。

  愚かな者というのは、IQが低(ひく)いという意味ではない。知能程度(ちのうていど)が低いという意味ではなく、神様の前にあって自分の力(ちから)や知恵(ちえ)を自慢(じまん)する者は、全知全能の神様の前にちっぽけで何(なに)も知(し)らない存在(そんざい)にすぎない、ということだ。

  ニュートンという学者は一生懸命(いっしょうけんめい)、聖書を学(まな)んだ人物(じんぶつ)だといわれている。多くの人々が彼を「偉大(いだい)な先生(せんせい)」と賞賛(しょうさん)する中(なか)、海辺(うみべ)に立(た)ったニュートンは一(ひと)すくいの砂(すな)を拾(ひろ)ってこう言った。「見てごらんなさい。この果(は)てしなく広(ひろ)がる砂浜(すなはま)を!私は、ほんの一(ひと)すくいの砂ほどにも知(し)ってはいない。未知(みち)の世界(せかい)はこんなにもあるのです。人間がどれほど努力(どりょく)したところで、神様の知恵(ちえ)をすべてはかり知ることはできないのです。」と。

  多く学ぶ人達(ひとたち)は、へりくだった姿(すがた)を身につけていくようだ。世界的に有名な辞書(じしょ)を作った言語学者(げんごがくしゃ)ウェブスターも、同(おな)じように創造主(そうぞうぬし)である真(まこと)の神様の前(まえ)にひれ伏(ふ)した一人(ひとり)である。

  私達は、聖書に書かれた神様の救(すく)いを「宗教(しゅうきょう)」とは言わない。一般的(いっぱんてき)には、学校の教科書でもキリスト教(きょう)、神道(しんとう)、仏教(ぶっきょう)、あるいはイスラム教(きょう)などと「教」をつけるが、イエス様の救いは決して「宗教」ではない。創造主である神様のお与(あた)え下さった道(みち)であり、これは宗教ではない。仏教はしばしば哲学(てつがく)と言われる。イエス様の救いは具体的(ぐたいてき)な人間の生命(せいめい)、生命(いのち)の救いに関(かん)することであり宗教ではない。

  「宗教」は、そこに儀式を伴(ともな)う。その儀式を通(とお)して人間が神々に近(ちか)づいていくと考える。この教会に通(かよ)っている方々(かたがた)は、この教会で儀式をするのをご覧(らん)になったことはないと思う。牧師(ぼくし)がローソクに火(ひ)を灯(とも)し「皆さん、手をかざしなさい。」などとやったことはない。神様の御心(みこころ)は、この聖書の中にすべて啓示(けいじ)されている。この神様のお言葉を私達は日々の生活の中で実際(じっさい)の体験(たいけん)として味(あじ)わっていく。イエス・キリストの救いは「宗教」という儀式や戒律ではなく、生命の道である。

  人間が真の神様を自分の知恵で知ることができないのはなぜか。コリント人への手紙一章三二節にはユダヤ人はしるしを乞(こ)い、ギリシャ人は知恵(ちえ)を求(もと)む。≠ニあり、人間は人間の知恵をもってまことの神様を知(し)ることはできない、と書かれている。それを書いたのはこのロマ書を書いたのと同じ人物(じんぶつ)パウロであった。(続く)

 


◎ 暗誦聖句 イザヤ書四〇章三一節前半

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