◆ ロマ書の学び(259)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一一月二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  パウロはギリシャのアテネで、たくさんの哲学者(てつがくしゃ)、思想家(しそうか)を前にアレオパゴスの評議所(ひょうぎしょ)で、まことの救い主、すべての物をお創(つく)りになった創造主(そうぞうしゅ)である神、そしてその父なる神様が世に救い主としてお遣(つか)わし下さったイエス・キリストについて論じ証(あかし)をした(使徒行伝一七章一六、二二〜三四節)。私もパウロが立ったアレオパゴスの評議所に行ったことがある。マーズ・ヒル、マルスの丘と呼ばれる、かつてパウロがギリシャの哲学者や思想家と論じた所には、今、建物が立てられ標識(ひょうしき)が立っている。

  パウロはギリシャの哲学者や思想家を向(む)こうにまわし、「まことの神様はただ一人しかいらっしゃらない。あなた方(がた)はゼウスやバッカスなど、様々(さまざま)な神々を持っている。しかし、そうしたバッカスもアフラマツダもゼウスも人間が作った所産(しょさん)に過ぎない。まことの神様は人間が作るものではなく、神様によって私たち人間が創られたのだ。」と論じた。後にパウロは述懐する。そのアレオパゴスの評議所でパウロの議論を聞いて何人救われたかというと、大変少なかった。パウロは、議論に勝っても人間は救われない、ということを身をもって知った。大事なことは、議論することよりも、日々(ひび)の生活にあって神様との親(した)しい交(まじ)わりを頂(いただ)き、そこに証(あかし)をしていくことだ、ということを記している。

  されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲(じひ)によりて汝らに勧(すす)む、己(おの)が身を神の悦(よろこ)びたもう潔(きよ)き活(い)ける供物(そなえもの)として献(ささ)げよ、これ霊(れい)の祭(まつり)なり。又(また)この世に效(なら)うな、神の御意(みこころ)の善にして悦(よろこ)ぶべく、かつ全(まった)きことをわきまえ知らんために心を更(か)えて新(あらた)にせよ。=@   
    ロマ書一二章一〜二節

   特にこの一節を中心に学んでいきたいと思う。

  「勧(すす)む」という箇所(かしょ)は英語ではI beseech you.≠ニ、表現されており「懇願(こんがん)をする」「私は心からあなたに願(ねが)っている。」という意味になる。イエス様によって救われた人に対して、彼は強圧的(きょうあつてき)に上から下に命令するようにしようと思えばできた。導(みちび)き手(て)であったパウロはできる立場にあったが、そのようにはしなかった。

  教会における奉仕や神様へのご奉仕というものは、決して牧師や誰かに命令されてするものではない。また、他の宗教のようにこれをしなければ功徳(くどく)が得(え)られないとか、これをしなければバチが当(あ)たるというようなことは一切(いっさい)ない。私達はイエス様を信じて救われてから、全く自発的(じはつてき)に、感謝の思いで神様に自分をささげていく。ここでパウロは二つの言葉で、私達に注意を喚起(かんき)させている。それは「神様がおよろこびになる生(い)きた供(そな)え物(もの)」という言葉だ。供え物は、もともと死んだものである。「供える、いけにえ」というものは完全な服従を意味するから、祭壇(さいだん)の上で殺(ころ)された物である。(続)

 


◎ 暗誦聖句 ペテロ後書三章八節C

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