◆ ロマ書の学び(260)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一一月九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  人間の歴史(れきし)をたどっていくと、多くの宗教が人間の子供を生きたまま祭壇(さいだん)にささげたりしてきた。聖書の中にはモロクの祭壇が出てくる。大きな偶像(ぐうぞう)があるところにモロクが手を広げていて、そこで小さな赤ちゃんを火で焼(や)いた。イスラエルの民は、そんなモロクの神殿(しんでん)に心(こころ)を奪(うば)われたことがある。

  まことの神様を知らされていながら、人間は堕落(だらく)すると大変(たいへん)なことになってしまう。供(そな)え物(もの)は死んだもの。ところが使徒パウロは「あなたの体を神様に喜ばれるような、きよく、生きた供え物としてささげなさい。」と、言っている。生きた供え物、それはイエス様を信じたら修道院(しゅうどういん)に入ってこもってしまうとか、全く世間(せけん)と隔離(かくり)されたところにいて読経(どきょう)をしたり書写をしたりするということではない。

  私達はこの世にあってその時代(じだい)に生きる。その生き方において、神様に自分自身をささげた者として生きる。この世の中の社会の人達といっしょに働(はたら)き、生活をし、生きていくということである。

  供(そな)えるという時に、その供えられた物が自分勝手(じぶんかって)に何かをするということではない。日本では、昔から「まな板(いた)の上の鯉(こい)」という言葉を使う。多くの魚(さかな)の中で、鯉はまな板の上に乗(の)せられると、ぴたっとその動(うご)きを止(と)めるという。もし鯉が話せたら「もう、どうにでもしてください。」と言うかもしれない。

  それくらい潔(いさぎ)よく、一度まな板の上に乗せられたら覚悟(かくご)を決(き)めるという日本人の象徴的(しょうちょうてき)表現(ひょうげん)だ。自分はもう自分の勝手には何かをしない。煮(に)ても焼(や)いても何をしてもいいという、自分を完全に明(あ)け渡(わた)す型(かた)である。私達は鯉をあらいなどいろいろな形に調理して食(た)べる。多くの宗教は、私達が犠牲になり、死んで喜ばれる。

  ところが、聖書に書かれているまことの神様は「あなたは死ぬんじゃありませんよ。私の救いを受けてから死んだのでは何の意味もありませんからね。あなたは生きなさい。」とおっしゃる。日本には、三原山をはじめ九州や北海道など噴火山(ふんかざん)のあったところで自殺をする人が多くいる。私達は死ねばもう何もなくなると考(かんが)えがちだが、そうではない。自殺をしようとしていた人が、クリスチャンが立(た)てた立て札(ふだ)やトラクトを読(よ)んで引き返して救われ、教会生活を送っているということを耳(みみ)にする。

  私達は神様にこの身(み)を献(ささ)げるということで自分自身に死(し)ぬ。このことはロマ書の六章で勉強した。私達はイエス様を信じた時に、イエス・キリストと共に十字架につけられ、死んで葬(ほうむ)られそしてイエス・キリストと共に甦(よみがえ)らせられると信じる。だから、私たちの古(ふる)い性質(せいしつ)は十字架につけられて死んだものと認(みと)めなさい、思いなさい、と書いている。reckon=@ロマ書六章一一節に「そのように思いなさい」と書かれている。続

 


◎ 暗誦聖句 イザヤ書四〇章三一節後半
また鷲(わし)のごとく翼をはりてのぼらん。走れども疲れ ず、歩めども倦(う)まざるべし。

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