◆ ロマ書の学び(261)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一一月一六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  私達はこの地上の生活において、毎日の生活を営(いとな)みながら何をすべきなのだろうか?大切(たいせつ)なことは、私はイエス様を信じてどういう状態(じょうたい)になったのかを自覚(じかく)することだと思う。

  汝らは価(あたい)をもて買(か)われたる者なり、さらばその身(み)をもて神の榮光(えいこう)を顕(あらわ)せ。<Rリント前書六章二〇節

  あなた方は代価(だいか)を払(はら)って買(か)われた者である。だからその体(からだ)をもって神様の栄光をあらわすようにしなさい。代価を払って買われた≠フだ。では、代価とは何か?それは、イエス・キリストが十字架の上で流して下さった血潮(ちしお)である。イエス様の十字架の血によって、私達は罪けがれを洗いきよめられ、まことの神様の前に立つ事ができる状態にされた、ということだ。

  当然のことながら、これは象徴的(しょうちょうてき)な型である。私達が体を傷つけて、その血を飲(の)むとか、血を体に塗(ぬ)るということではない。イエス様は私達の罪けがれを背負(せお)って十字架につけられ死んで下さった。ローマの兵隊が槍(やり)で横腹(よこばら)を突いて流れた血潮、これが私達の罪けがれを赦(ゆる)すという神様のご計画であった。

  その子イエスの血、すべての罪より我らをきよむ。≠ニあるように、イエス・キリストの血がすべての罪より私達をきよめて下さる。血の話をすると「キリスト教というのは、随分(ずいぶん)むごい宗教ですね。」と言う人達がいる。しかしそれは、イエス様が私や皆さんの罪けがれをきよめ、ゆるすために、十字架の上で流して下さった血潮だ。

  イエス様の時代、二千年前にさかのぼって、イエス様の墓(はか)に残っているかもしれない血の塊(かたまり)を削(けず)ってきてそれを飲むとかいうことではない。また、イエス様のお墓に亡骸(なきがら)はない。なぜならイエス様は、死を征服(せいふく)なさって復活(ふっかつ)していらっしゃるから。オウム真理教で言う「血分(ちわ)けの儀式」などとは全く違う。教祖の麻原しょうこう氏は、自分がお風呂(ふろ)に入って体を洗ったアカだらけのお湯を一杯三〇万円で売ったり、爪(つめ)を切ってそれも売っていたとか。そういう馬鹿(ばか)げたことを信じる人が今でもいる。

  そのようなことではなく、私達が信じる聖書の教えは、イエス様が私達の罪けがれを背負って下さり、その身代(みが)わりとして血を流して下さったということだ。旧約聖書の時代には、イスラエルの人々は毎年神殿に犠牲とする動物を連れて行き、それを殺して血を注(そそ)いだ。しかし新しい契約の時代の今、イエス様がすべての人間の罪けがれを一身(いっしん)に背負(せお)って下さり、流された血潮によって私達はきよめられたということだ。           (続く)

 


◎ 暗誦聖句 ヨブ記四二章一〇節前半

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。