◆ ロマ書の学び(263)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一一月三〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲(じひ)によりて汝らに勧(すす)む、己(おの)が身を神の悦(よろこ)びたもう潔(きよ)き活(い)ける供物(そなえもの)として献(ささ)げよ、これ霊の祭なり。=@                   ロマ書一二章一節

  イエス様を信じてから「私が、私が」と、いつも自分を強調(きょうちょう)すると、どんどん神様から遠く離(はな)れていく。クリスチャン生活は、「私」ではなく「イエス様」を中心とするものである。「私の人生は私のものだから何をしてもいいじゃないか。どこに行ってもいいじゃないか。」と考えるのは間違(まちが)いだ。

  イエス様に救われた私達は、心から神様に感謝をし「神様、どうか私をお使い下さい。ご自由に私をお使い下さい。」と自分を差(さ)し出(だ)すことが、ロマ書一二章でいうところの「生(い)きた供(そな)え物(もの)」ということだと思う。日曜日に教会に来てお祈りをし、献金をし、賛美(さんび)をすることだけがクリスチャン生活ではない。毎日、いつ、どこにいても、神様を中心とした歩(あゆ)みをすることだ。

  たとえば皆さんが駅に向かって歩いている時も、神様のために生かされ神様と生きる。食事をしている時も、神様の御栄(みさか)えのために食事を楽しむのだ。「ここからここまでは私のもの」、「ここから先は神様のもの」ということではない。生活のあらゆる面(めん)が神様のものだ。それはむずかしいことだろうか?

  一週間のうち一時間だけ神様の時間として教会に来ることは簡単(かんたん)である。その時間だけじっとしていれば一時間くらい「あっ。」という間(ま)に過(す)ぎるから、後(あと)は自分のやりたい放題(ほうだい)…。神様は、「あなたのこれからの人生すべてにおいて、私のために生きなさい。」とおっしゃっている。しかし神様は、決して強制(きょうせい)はなさらないし、私達も神様にすべてを明(あ)け渡(わた)して不自由だということはない。

  高校生の頃、私は毎週教会に通(かよ)っていたが、何年かは暗中模索(あんちゅうもさく)時代(じだい)が続いた。教会に通っていても聖書はむずかしいばかりで、なかなか信仰そのものがわからなかった。そして結婚してもなお、このロマ書の一二章一節のことはよくわからなかったのである。神様を信じ、「ああ、これが信仰の本質だ。」とわかったのは信仰生活を送ってずいぶんたってからだ。 今、私は一年中いつでも、神様によって生(い)かされていて感謝なことだと思う。もし私に、時間と才能(さいのう)があるならば、それらをみんな神様の御栄(みさか)えのために使っていきたい、用いられたいと願う。       (続く)

 


◎ 暗誦聖句 ネヘミヤ記八章一〇節
エホバを喜ぶことは汝らの力なるぞかし。

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