◆ ロマ書の学び(264)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一二月七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  皆さんよくご存知(ぞんじ)の偉大(いだい)な音楽家メンデルスゾーンが、ある時有名な寺院(じいん)に行った。そこには立派なオルガンがあるというので訪(たず)ねて行ったのである。平日で会衆はいなかったので、彼はオルガンに近づき、いつもオルガンを弾(ひ)いている老人に「少しオルガンをさわらせてくれませんか。」と頼んだ。すると老人はしかめ面(つら)をして、「このオルガンはすごく大切な高価なものなんです。」と言った。

  メンデルスゾーンは「このオルガンが素晴(すば)らしいことは知っています。もちろん大切なものですからそう簡単に触(ふ)れるとは思いませんが、もしお願いできれば一回でいいですから弾(ひ)かせて下さい。」と熱心に頼みこみ、やっとのことで老人の許可(きょか)をもらってオルガンで曲を奏でた。すると老人は「あなたは誰ですか?」と聞き、彼が「私はメンデルスゾーンです。」と答えると「ああ、私はもう少しであなたを追(お)い出(だ)すところでした。でも、あなたの演奏を聞いて、このオルガンが私が今まで聴(き)いたことのないような美しい音楽を奏(かな)でました。」という逸話(いつわ)がある。

  私達は、自分の手で自分の人生をもっていると思いやすいが、それは大きなまちがいである。私たちは神様のご計画のもと、生(い)かされている存在(そんざい)である。美しい音色(ねいろ)をかなでられるオルガンのようなものである。しかし、自分で美しい音色を奏でられるわけではない。主が、私のそばにこられ、私をお使いになろうと、イエス様が手を置いてくださる。その時、はじめて美しい音色をかなでることができるのである。あなたが持っている素晴らしい才能(さいのう)をイエス様にささげる、イエス様がそこに手を置いて下さるならば、みなさんは非常に美しい音楽を奏(かな)で、あかしとなって光り輝く存在となるはずである。「私のもの」「私のもの」と思っていると、やがてそれは使えなくなる。

  兄弟の恥(はじ)をさらすようだが、何人もいた姉の一人が小さい頃から裁縫(さいほう)が上手(じょうず)だったので、両親が洋裁と和裁を習わせた。ある程度の資格を取った時、家族は皆喜び、さっそく姉のところに「このボタンをつけて。」と持って行った。しかし姉は、「そんなの自分でやりなさい。」と言い、ほころびを直(なお)してくれるよう頼んでもぜんぜんやってくれなかった。やがて彼女にも好(す)きな人ができ、見るたびに姉はその人のものを縫(ぬ)っている。そこで私たち家族は、「家族のためには何もやってくれなくて、どうして他人のためにやるのか!」と怒ったものである。しかしもともと、あまり裁縫は好(す)きではなかったらしく結婚してからは全くやらなくなってしまった。

 


◎ 暗誦聖句 ルカ伝一七章三三節
おおよそ己(おの)が生命(いのち)を全(まっと)うせんとする者は、之(これ)を 失い、失う者は、これを保つべし。

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。