◆ ロマ書の学び(265)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一二月一四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  もし皆さんの才能を、自分のためだけに、自分の関心のためだけに使うならば、やがてその才能はさびてくる。けれども、少しでもピアノを習ったことのある人がその才能を神様のためにささげるなら、神様は大いに用(もち)いて下さる。料理が上手(じょうず)な人なら、その才能を家族のためだけでなくイエス様にささげて頂(いただ)きたい。「神様。どうかこれをお使い下さい。」と、料理が好きだというタレント(才能)を神様のご用のために使って欲(ほ)しい。私は料理はヘタ、裁縫もできない、でも掃除は誰にも負けない、という人はそのタレントを使って頂(いただ)きたい。みんなが嫌(きら)いな掃除をやるという事も、特別な才能だ。

  ひとつの例をお話ししよう。アメリカにカーネギーという人がいた。後(のち)に大金(おおがね)持(も)ちになってアメリカに君臨(くんりん)した有名な人物だ。若い頃の彼は、アルバイトをしなければ学費(がくひ)も払(はら)えない貧しい生活の中にあった。朝早くから駅の掃除をするカーネギーの前に、ある日立派な紳士が立って「君、掃除は楽しいかい?」と聞いた。彼は「はい、私の責任ですから、一生懸命やっています。」と、答えた。

  何週間か経(た)って、その紳士が再びカーネギーの前に立ち「君の新しい職場を作ったから家に来なさい。」と申し出た。カーネギーはその丁寧(ていねい)な掃除ぶりが認められ、紳士の経営する大きな会社の高い地位に引き抜かれた。その紳士の見立(みた)て通り、カーネギーは大富豪(だいふごう)にまで、のぼりつめる。その時のことを、彼は本に書いている。

  「私は誰かに認められたいと思って掃除をやっていたわけではない。ただ、自分に与えられた責任だと思って駅のホームの掃除をやっていた。でも、その掃除の仕方は他の駅員とは違っていると認(みと)めてくれる人がいた。」

  自分の仕事に責任を持ち、これは神様のためと思ってやっているかどうかで違(ちが)いが出てくる。不信仰な言葉であるが、「捨(す)てる神あれば、拾(ひろ)う神あり」というのがある。みなさんは今、職場においてみんなから嫌(いや)がられている存在かも知れない。しかし神様を信じてきちんと真面目(まじめ)にやっていくならば、例(たと)えリストラにあってそこをクビになっても、神様はもっといい職場を必ず備(そな)えて下さる。

  そのいい例が、この教会にも何人かいらっしゃる。それまで務めていたところが、リストラだ、賃金(ちんぎん)不払(ふばら)いだ、ということがあった。しかし一生懸命にやっていたら、神様がもっと素晴(すば)らしい安定したところへと移(うつ)してくださったという例である。

  自分のためだけでなく、神様にすべてを明(あ)け渡(わた)し、ささげていく時にそれが礼拝だと神様はおっしゃる。

 


◎ 暗誦聖句 詩篇一一九篇一〇五節

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。