◆ ロマ書の学び(269)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年一月二五日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  我らの顧(かえり)みる所は見ゆるものにあらで見えぬものなればなり。見ゆる物は暫時(しばらく)にして、見えぬものは永遠に至るなり。=@    コリント後書四章一八節

  世と世の慾とは過ぎ往(ゆ)く、されど神の御意(みこころ)をおこなう者は永遠に在(あ)るなり。=@ 第Tヨハネ二章一七節

  世と世の慾(よく)、この世界は過ぎ去っていく。いつまでもその価値が存続するわけではない。けれども神様の御心を行う者は永遠に在(あ)り、あなたの行う仕事や証は残っていく、というのだ。永遠の価値があるものなのである。

  なぜ中国の人たちが自分の国でたくさんの金(きん)の鎖(くさり)、あるいは、翡翠(ひすい)などを身につけているのだろうか。彼らは、金(きん)こそ火に焼かれても残り、どんなことがあっても金(きん)は価値があると考えている。ユダヤ人が銀行にお金(かね)を預けないで、いつも自分でお金(かね)を持っているというのと同じである。中国の人たちは金(きん)そのものに永遠性を見いだそうとしているのだ。

  日本でも昔、大名は金(きん)とか水銀の価値を認めた。金は、火に焼かれても残ってその形をとどめる。形は変わるが金そのものは残る。たとえ人間が死んでもいつまでも金は残る、ということから、日本の大名やお金持ちは金や水銀を飲んだ。今でもお茶で、金粉が入っているものがある。うっかり銀を飲むと、中毒になるので気をつけてほしい。人々は金を飲むことによって永遠に続くものを求めたのである。 エジプトのスフィンクス、ピラミッドも永遠ということを求めた。しかし人間の築くものは決して永遠ではない。

  この聖書に書かれたみ言葉に従った者だけ、神様の御心(みこころ)に準じた生き方、なされた働きだけがいつまでも続くのである。コリント人への手紙の中でパウロはそう書いた。木や、草や藁(わら)で作った物ではなく、いつまでも滅(ほろ)びることのない物、火に焼かれても永続する物を自分の信仰の土台としなさい、とパウロは教えている。

  世と世の慾とは過ぎ往く、されど神の御意を行う者は永遠に在るなり。 ヤコブはヤコブ書四章四節で姦淫(かんいん)をおこなう者よ、世の友となるは、神に敵するなるを知らぬか、誰にても世の友とならんと欲する者は、己を神の敵とするなり。≠ニ書いている。

  あなたは神様の敵になりたいだろうか。誰も神様と戦いたいとは思わないだろう。神様に私の味方(みかた)についてほしいと思うのは当然である。けれども、もし、この世の中の流れにずっと自分がひたりきっているならば、みんながやるからとこの世の流れに染(そ)まっているならば、聖書は何と言っているか。この世と友達になるならばあなたは神様に敵対しているのを知らないのかと書いているのだ。信仰の世界、神様のごらんになるこの世界において、神様の側か、悪魔の側につくか、どちらかしかない。ここにはグレイ・ゾーン、中間地帯はまったく無い。(続)

 

 


◎ 暗誦聖句 詩篇一一九篇一六五節A

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。