◆ ロマ書の学び(273)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年二月二二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  イスラエル人、ユダヤ人は外側から規制しようとした。外側を「宗教熱心」に見せようとした。そこでイエス様は、そうではない、と彼らを裁(さば)かれた。大事なのは心の内側である。あなたの心が本当に神様に向いているか、どうか。外側をきれいに見せるパリサイ人であったり、律法学者であってはいけないと仰(おっしゃ)ったのである。

  私たちの救いは、自分の良い行(おこな)いによるのではない。お酒をやめたから、競輪、競馬をやめたから、ダンスをやめたから立派(りっぱ)なのではない。まず内側がイエス様によって変えられ、新しく生まれかわり、「新生」することが大切である。新しく生まれた人達は外側がだんだんと変わっていく。人間の本質、そのものが神様によって変えられる。

  肉の念(おもい)は神に逆(さか)らう、それは神の律法に服(したが)わず、否(いな)したがうこと能(あた)わず、また肉に居る者は神を悦(よろこ)ばす事能わざるなり。
   ロマ書八章七節

  人の心はイエス様に近づくに従って、自分の欲望が変わってくる。自分の考え方の基盤が変わっていくのだ。価値観が、そして自分の生き方が変えられていくのである。 残念なことに現代の教会の姿は、「自分は変(か)わりたくない、少しでも心の安定が得られるため、安(やす)らぎを得るために聖書を読み、聖書の約束をいくつか挙(あ)げる」という人が多い。

  しかし、それは全く入(い)り口(ぐち)が違う。信仰生活は、日曜日の礼拝だけ、この時間だけでは完成しない。クリスチャン生活は礼拝を守るだけでは一〇〇パーセントとはいえない。クリスチャンは日曜日の礼拝、午後の祈祷会と、水曜日の聖書の勉強、祈りの時、さらに奉仕、それらに加わって初めて、クリスチャンの全体的な品性がつくられてゆく。

  一部の人たちは、日曜日の礼拝に一時間ちょっと参加すれば、自分は信仰的に守られる、神様は守るはずだと考えているようだが、それはとんでもないことである。それは不従順であり、欲張りである。なぜか。神様を第一としていないからである。まず神の国と神の義とを求めよ≠ニ神様は仰(おっしゃ)った。あなたは神様の義を求めていない。自分に都合(つごう)の良いように、聖書や教会を利用しようとする。とんでもないことである。

  私たちは、神様を利用するのではなく、神様が私たちをお使い下さるようにお願いしなければならない。皆さんの信仰は中途(ちゅうと)半端(はんぱ)であり、あまりにもグレイ・ゾーンにいるのではないだろうか。       (続く)

 

 


◎ 暗誦聖句 ヨハネ伝三章三〇節
彼は必ず盛(さかん)になり、我は衰(おとろ)うべし

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