◆ ロマ書の学び(274)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年三月一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  いつも自分のいるところ、またはこたつから出ようとしないで「お茶もってこい。ご飯もってこい。酒もってこい。新聞もってこい。」とやっているなら成長しない。「もっと足を使いなさい。」と聖書は教えている。ロマ書一〇章一五節には良きことを告(つ)ぐる者の足は美しい≠ニ書いてある。私たちはもっと、訪問伝道に、あるいは個人伝道や証(あかし)に、または日曜学校で子供を教えるために出ていかなければ、足を使わなければいけない。頭ばかりくり返して使ってはいけないのである。

  頭でっかちの信仰は、つんのめるか、後ろにひっくり返るかである。クリスチャンは足を使わなければいけない。そして神様の御(み)言葉(ことば)を勉強しなければいけない。「忙(いそが)しいから。」といういいわけをしてはいけない。忙しくない人はいない。忙しいからこそ私たちは心に隙(すき)を与えないように、あるいは悪魔の攻撃(こうげき)から守られるように、イエス様の御言葉に従って進むために、神様の御心(みこころ)を学ぶ必要がある。神様の御心(みこころ)を学ぶには聖書を学ぶしかないのである。

  日本には世界中の宗教があつまっていて、宗教を研究するのには格好(かっこう)の地であるといわれている。だが、真(まこと)の神様を知るためには神様の啓示(けいじ)の書(しょ)、聖書を学ばなければならない。

  礼拝に行くのにどんな服装にしようか迷う人がいる。私はこのかっこうで神様を礼拝するのにふさわしいか、神様の御前(みまえ)に出るのにふさわしいかと考える。それが普通であろう。だが神様は「毛糸はだめだよ。化繊(かせん)もだめだよ。ただ木綿(もめん)だけだよ。」などとは仰(おっしゃ)っていない。

  旧約時代には神様に仕(つか)える祭司(さいし)は必ず麻(あさ)の衣(ころも)を着ていた。しかし、新約時代にそれはない。私たちは自由なのである。でも原則から考えて、おへそを出したりするかっこうは決して神様の御栄(みさか)えを表すものではないといえる。

  イスラエルは神様に背信行為(はいしんこうい)をして、神様を裏切った。でも感謝な事にそんな罪深いイスラエル、何度も何度も神様を裏切ったあのイスラエルの民は今も尚(なお)、神様のご計画の中にある。そして、回復の時が来る。これがロマ書一一章の教えである。

  神様は決して、イスラエルの民を永遠(えいえん)に滅(ほろ)ぼすことはなさらない。神様は必ずその約束、契約(けいやく)のゆえにイスラエルの人々を神の側(がわ)にひきよせてくださる。同じようにあなたはこれまでに何かイエス様に間違(まちが)いを犯(おか)したことがあったかもしれない。家庭生活で、あるいは仕事の面で、つまずいたかもしれない。けれどもイエス様の所に来るならば、イエス様は、いつでも「我が愛する子よ。」と言って迎えてくださる。イエス様の所には赦(ゆる)しがある。己(おのれ)の罪を言いあらわさば≠ニ第Tヨハネ一章九節にある。           (続く)

 

 


◎ 暗誦聖句 レビ記一九章一八節後半
 汝(なんじ)の隣(となり)を愛(あい)すべし。我(われ)はエホバなり。

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。