◆ ロマ書の学び(275)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年三月八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  神様は真実で正しいお方であるから、私たちが自分の罪(つみ)を言い表(あらわ)すならばその罪をお赦(ゆる)し下さる。神様はいつも、両手を開いて「私の子供よ、早く私のところに帰って来(き)なさい。」と仰(おっしゃ)る。今までに間違(まちが)ったり、間違った目標をもって生きてきたとしてもかまわない。とにかくこの聖書に書いてあるイエス様の所に来(く)るならば必ずあなたの人生は輝(かがや)けるものになる。地(ち)の塩(しお)として、世(よ)の光としての存在価値を表すのだ、と聖書は教えている。

  成(な)し給(たま)え、汝(な)が旨(むね)。陶匠(すえつくり)わが主よ。我(われ)はただ、汝(な) が手の内にあるつちくれ。汝が旨(むね)の成(な)る時(とき)、他の人は 見るべし。わが内にます君、キリストの姿を

  聖歌二九五番「成したまえなが旨(むね)」という賛美は、クリスチャンにとって、生涯(しょうがい)私たちの祈りであり、また日々の生活のテーマではないかと思う。

  私たち夫婦は、結婚当初からほとんど欠(か)かすことなく、犬を飼っている。教会というところは意外と物騒(ぶっそう)な所なため、番犬の意味で犬を飼い続けてきた。最初に飼ったのは私たちがまだ平井(ひらい)にいた時分である。散歩の途中、大通りでその犬が何かにおびえて突然くるっと方向転換した。あっという間もなく私は大通りに手をつき、左腕を骨折した。それ以来、犬の散歩時には気をつけている。犬にもそれぞれ個性がある。元気の良い犬、おとなしく主人の言う通りについてくる犬、自分の我(が)を通す犬と、まるで人間の姿を見ているような感じである。

  もちろん私も含めてそれぞれに個性があり、強さ、弱さがある。前回飼った犬はこれまで飼ってきた犬の中で一番元気でエネルギーにあふれていた。メスだが、とにかくどこの犬に対しても負けずに吠(ほ)えて向かっていく感じだった。 以前、訪問先のひたちなかの公園で、この犬が後(うし)ろから走って来た人におびえて突然動き、私も犬と一緒にマラソン・ランナーに突き飛ばされたことがあった。どうも、犬は自分の行きたい方向に飼い主をひっぱっていこうとする本能的な力が働くらしい。そして多くの場合、犬ではなく飼い主のほうが、いきなり引っ張られて転(ころ)んだり、骨折をする。犬と人間の場合には飼い主の側がケガをする。では、神様と人間の場合はどうだろう。

  されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲(じひ)によりて汝らに勤(すす)む、己(おの)が身を神の悦(よろこ)びたもう潔(きよ)き活(い)ける供物(そなえもの)として献(ささ)げよ、これ霊(れい)の祭(まつり)なり。また、この世に効(なら)うな。神の御意(みこころ)の善にして悦ぶべく、かつ全(まった)きことをわきまえ知らんために、心を更(か)えて新(あらた)にせよ。
     ロマ書一二章一、二節

  ロマ書一二章の神様の御意(みこころ)に≠ニいう観点から考えると、自分勝手に歩む人間に、創(つく)り主(ぬし)である神様はケガこそなさらないが、御心(みこころ)を痛(いた)められる。(続く)

 

 


◎ 暗誦聖句 第一ヨハネ一章七節後半
またその子イエスの血すべての罪より我(われ)らを潔(きよ)む。

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