◆ ロマ書の学び(283)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年五月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

  旧約聖書にでてくるヤコブの子、ヨセフを思い出して欲しい。ヨセフは、自分の兄達の手によって異国に奴隷として売り飛ばされてしまった。一生懸命に働いたヨセフは主人ポテパルにたいへん信頼された。しかし、ポテパルの妻のずるがしこいワナにより、ぬれぎぬをきせられ罪人とされ牢獄(ろうごく)に入れられてしまった。けれどもこの時も、彼はひたすら神様の御心(みこころ)を求め、日々御心(みこころ)を喜んで行い続けた。「こんなはずじゃなかった…。」という辛苦の日々を送った彼だが、神様は御心(みこころ)の時にヨセフを王の次に偉い立場にされた。そして、彼はエジプトを治める者となり、イスラエル民族も彼の庇護(ひご)のもとに安心して生活を送ったのである。

  人を喜ばする者のごとく、ただ目の前の事(こと)のみを勤(つと)めず、キリストの僕(しもべ)のごとく心より神の御旨(みむね)を行い、人に事(つか)うるごとくせず、主に事(つか)うるごとく快(こころよ)くつかえよ。
        エペソ書六章六〜七節

  イエス様の教え、聖書の教えの中でたいへん心を打たれる言葉がある。それは「心から」という簡単な言葉である。「心から」ということは、全く飾りもなしに、虚栄心(きょえいしん)もなしに、誰かが見るからではなく本当に自分の誠心誠意(せいしんせいい)、自分自身の誠(まこと)をもって神様の御心(みこころ)を行うということである。何か言われて行う時には、嫌々(いやいや)従う人もいれば喜んでやる人もいる。イエス様はそのことを、例(たと)えの形で話された。二人の兄弟に父親が用事を頼んだ時、兄は「はい、行きます。」とよい返事をしたのに行動しなかった。一方、弟は「嫌(いや)です。」と言ったけれども、あとから悔い改めてそれを行った。どちらが父の心を行ったであろうか、という例えである(マタイ伝二一章二八節以下)。

  子供の頃、私は家族によく笑い者にされた。とにかく私は自分ではそう思わなかったのだが、家族にすればいらいらするほどグズだったようである。グズとは、動きが超スロー、たいへん遅い、ということである。顔を洗うのも数回も言われてようやく顔を洗う。食事も誰よりも遅く、テーブルの上は片付けられて自分のお茶碗だけになり、家族は仕事に行ってしまってもまだ一人だけ、ぽつんと食べている、という具合である。だから小さい頃はグズというあだ名で呼ばれ、皆の最後からついていくことばかりであった。しかしそんな私が、神様に従うときには「もう自分はこんなにやっています。だから、待って下さい。」ではなく、すぐ立って「はい。」と返事をして行動に移すということを学んだのである。考えてみれば長い年月、自分はグズでいいんだと自己満足の生活を送っていた。しかし、神様の御心はタイミングをはずしたら、せっかくの良いものも悪くなる。 (続)

 

 


◎ 暗誦聖句 サムエル前書一六章七節後半
「人は外(そと)の貌(かたち)を見、エホバは心をみるなり。」

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