◆ ロマ書の学び(287)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年六月七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

われ興(あた)えられし恩恵(めぐみ)によりて、汝等(なんじら)おのおのに告(つ)ぐ、思(おも)うべき所(ところ)を超(こ)えて自己(みずから)を高(たか)しとすな。神のおのおのに分(わか)ち給(たま)いし信仰(しんこう)の量(はかり)にしたがい慎(つつし)みて思(おも)うべし。=@            ロマ書一二章三、四節

  ロマ書一二章から一五章は、神様によって変えられた私たちが、キリストの御業(みわざ)をこの地上において果(は)たす具体的な生活の証(あかし)を教えている。

  神様の義は、神様の力によってかえられたクリスチャン一人一人を通してこの世界にあらわされる。まずはじめに自分自身を神様に明け渡す、ささげるということからこの課題は始まる。

  クリスチャンの信仰は、ただ信じましょうと言うだけではだめである。讃美をしたり祈るだけでなく、身近な生活のなかで、具体的な場所において、私たちがその信仰を証することである。

  使徒パウロは、神様の恵みによって異邦人(いほうじん)伝道という大きな使命を託(たく)された。教会は多くの人たちが、さまざまな背景を持って集まってくる。お金持ちの人を尊(とうと)ぶとか、有名人がその教会に入ってくると、ワッとたかってその人にサインをもらったり近づきたくなって群(むら)がっていくことがある。それは、この使徒パウロの時代も同じだった。

  使徒行伝を見ると、一つの教会の中に「私はパウロにつく。」「私は雄弁家(ゆうべんか)のアポロにつく。」「私はペテロに。」というようにグループができたことがわかる。 今でも実は、アメリカのように有名な女優が来るとか、ケンタッキーのおじさんが来るとかいうと、それが人を教会に集める道具になる。

  ケンタッキー・フライドチキンの創業者は教会でよく証をしていたので、彼が行くところに大勢(おおぜい)人が集まった。エリザベス・テーラーが証をするというと、そこにおおぜいの人が集まった。

  しかし、それは本来の教会の姿ではない。教会は、人間が誰かの前に立って誉(ほま)れを得(え)るとか、非常に極悪(ごくあく)非道(ひどう)な生活をした人が神様を信じて変えられた話をする場ではないからだ。自分の過去の経歴(けいれき)、どんなに悪い人間であったかと、蕩々(とうとう)と述(の)べることが証なのではない。

  証とは、「私は本来、哀れな状態でしたが、イエス・キリストの愛と憐れみによってかえられました。」という、イエス様の御力(みちから)を証するのが、本来の証である。自分の過去ではない。

 

 


◎ 暗誦聖句 詩篇七三篇二五節前半

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。