◆ ロマ書の学び(288)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年六月一四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

われ興(あた)えられし恩恵(めぐみ)によりて、汝等(なんじら)おのおのに告(つ)ぐ、思(おも)うべき所(ところ)を超(こ)えて自己(みずから)を高(たか)しとすな。神のおのおのに分(わか)ち給(たま)いし信仰(しんこう)の量(はかり)にしたがい慎(つつし)みて思(おも)うべし。=@            ロマ書一二章三、四節

  「私がいなければ、習志野教会はつぶれてしまう。」「私が献金しなければ、たぶん牧師は困ってあまり厳しいことを信者に言わなくなるだろう。」などと、もし、一人でもそういう考えの人が教会にいるならば、その教会は堕落(だらく)した教会といえよう。この教会堂は一部のお金持ちの献金で建(た)てあがったのではない。ここにいる来会者、一人一人の大きな犠牲と、痛み、神様への感謝の思いからのささげものによる。二十年という長い年月コツコツと献金を蓄(たくわ)えて多くの人の祈りとささげものによって、建てられた。

  昔からよくいわれる「貧者(ひんじゃ)の一灯(いっとう)」というたとえのように熱心な人たちのささげもので、教会が建(た)ったのである。同じことは聖書の中でも言われている。

  私たちが自分の力で教会をつくるのではない。私たちは神様の大きなご計画の中に一人一人、この罪の世界から召し出された。振り返ってみると、どのような伝道活動にも、必要な人材が与えられてくる。このことは他の教会の歴史、あるいは過去の記録を見ても同じことが言える。「自分たちが一番必要な時に神様から与えられました。」という証(あかし)をよく聞く。もちろんこの教会でも必要な時に必要な人材が与えられてきた。

  多くの人は、会社の社長とか弁護士や医者が集まると何かその教会の格付(かくづけ)が高くなったように考えるが、神様はそう思われない。もちろん、この教会には社会的に立派な職業を持つ方もおられる。私は相対的にお話ししているだけで、教会はむしろ病人や心の痛み、悲しみでこの地上においてはどうにもできないような重荷を抱(かか)える人たちがやってくる場である。

   富(と)める者の神の国に入(い)る(=救わるること)は如何(いか) に難(かた)いかな。
        ルカ伝一八章二四節

   イエス様は、大金持ちが神様の救いにあずかるのは難しい、むしろラクダが針の穴を通る方が易(やさ)しいとおっしゃった。小さい針の穴にラクダが通る方が、大金持ちが神様の国(=天国)に入(はい)るより簡単ですよ、と説明されたのである。

  あなたは祈るとき、いつも「神様どうかこの会堂を求道者でいっぱいにしてください。」と祈っているだろうか。
             (続く)

 

 


◎ 暗誦聖句  マタイ伝一二章七節「」内
 「われあわれみを好みて、犠牲を好まず。」

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