◆ ロマ書の学び(289)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年六月二一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

神のおのおのに分(わか)ち給(たま)いし信仰(しんこう)の量(はかり)にしたがい慎(つつし)みて思(おも)うべし。
      ロマ書一二章三節

  神様が私たちにこの建物をお与え下さったのは何のためだろうか。私たちはこの教会堂を建てるために二五〇人収容できる建物を願った。バルコニーも三階も使って、教育館の方もそのためにぶち抜きにして、段差のできないよう、足が引っかからないように床も同じレベルにしてある。二五〇人が礼拝に参加できるように、とのヴィジョンで建てられた。

  しかし、祈ってささげて建てあげた時に、大勢の人たちがまだ部屋一杯に満ちていない状態で祈りをやめてしまったなら、不忠実といえよう。「神様、どうかこの建物をイエス様を信じる人でいっぱいにして下さい。」と祈ることは「私の病気をいやして下さい。」とか「私の家族を救って下さい。」という祈りと同じように、大事なことである。そんなに難しいことではない。

  神様がご覧になって喜ばれるのは何であろうか。私たちの日々の生活、信仰が証となることは当然のことで、私たち救われた者がさらに、他の人たちを神様のもとにお連(つ)れする、他の人に神様の証をするということが、たいへん大事なことであり、最優先の課題である。

  教会にはいろいろな働きがある。けれども救霊、他の人々をイエス様の所に連れてくる働きほど、大きな課題はない。イエス様は「畑を耕しなさい。もう色づいているではないか。」「刈り入れをする人たちがもっとおこされるように、祈りなさい。」とおっしゃられる。私たちはこの教会から、生涯を神様にささげる青年がおこされるように祈らなければならない。

  私がアメリカに勉強に行くきっかけを作って下さった方の娘さんママ・ファウストは、六三歳で宣教師を志願して台中(たいちゅん)市長の息子を養子にし、九一歳まで台湾で宣教師として働いた。彼女は台湾に行った時、自分は中国語を話せないので養子を通訳にして伝道した。はじめ、この青年は英語がわからなかった。

  彼女はこの青年を伝道者として訓練するためにアメリカに連れて行きボッブ・ジョウンズ大学で勉強させた。英語がわからずノートをとることができない彼にかわり、このおばあさんが一緒に授業に出てノートをとってあげ、家に帰ってからも息子に教えたのである。こうして、彼女も息子と共に大学院にいき修士号(しゅうしごう)を取ってしまった。最後は癌(がん)で亡(な)くなられたが、彼女は宣教師として働き続けた。(続)

 

 


◎ 暗誦聖句  ガラテヤ書一章一〇節後半

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