◆ ロマ書の学び(290)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年六月二八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  「神様にまずささげていく。どんなに年をとってからでも遅くはないのです。」とママ・ファウストは語った。「私は若いときに、神様に献身したいと思いましたが、家庭があり、子供達の養育がありました。」ご主人が神様に召(め)され、子育てが終わった時にはすでに六〇歳を過ぎていた。しかしその時に「私は何をすべきでしょうか。やはり私は神様に従いたいのです。」と祈り、決意して九一歳まで台湾で宣教師として働いた。

  六〇歳を過ぎたなら、多くの皆さんはたぶん「私は毎日テレビを見たり、植木をいじったりして楽しむ。」と思うかもしれない。けれどもこの婦人は、六〇歳を過ぎてから献身し宣教師になったのだ。神様に献身をするのに【年を取りすぎている】ということはない。 今、皆さんには家庭があり、家族の世話という責任があるだろう。それならば「神様、私の子供をあなたの御用(ごよう)のために召してください。」と祈ることが必要だと思う。

  ときどきわが家で話題にのぼるのだが、聖歌二三三番『み神は城なり』という曲中に「我が子を遣(つか)わし給(たま)え。」という一節がある。なぜ「私」ではなく「我が子を」というのか。まず自分自身を神様にささげ、明け渡し、次に自分の子供を神様に明け渡すことが、たいへん大事なのではないだろうか。

  使徒パウロは、教会の役員になるとか、奉仕分担の中でめだった奉仕に加わるという時に陥(おちい)りやすい、人間の誘惑について次のように書いている。

  思うべき所を超(こ)えて自己(みずから)を高しとすな。
                ロマ書一二章三節

  一生懸命に神様にお仕えしたいと、毎週どの集会にも熱心に出席し、聖書の勉強をする。とうぜん牧師や宣教師の目にとまる。「あの兄弟(姉妹)は本当に熱心だ。」となってゆくと、だんだん「自分は偉いのだ。」「私がいなければこの教会は続けていけない、もたないのだ。」と錯覚(さっかく)をしてしまう人もいる。

  「私がいなければ牧師はたぶん困るだろう。」「自分に間違いや、信仰の堕落(だらく)した状態があっても、牧師は私にむかって厳しいことを言えた義理じゃない。」と考える。明らかにそれは傲慢(ごうまん)な心の状態である。聖書の中に謙遜(けんそん)は栄誉(えいよ)に先立ち、高ぶりは滅びに先立つ。=i箴言一八章一二節)とある。また、ピリピ書二章五節のなんじらキリスト・イエスの心を心とせよ。≠ニいう聖句もたいへん大事である。             (続く)

 

 

 

◎ 暗誦聖句 ガラテヤ書一章一〇節後半
(我いま人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとす るか、抑(そもそ)もまた人を喜ばせんことを求むるか。)もし 我なお人を喜ばせおらば、キリストの僕(しもべ)にあらじ。

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