◆ ロマ書の学び(294)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年八月二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲(じひ)によりて
 汝らに勧(すす)む、己(おの)が身を神の悦(よろこ)びたもう
 潔(きよ)き活(い)ける 供物(そなえもの)として献(ささ)げよ。
      ロマ書一二章一節

  生きた供(そな)え物(もの)である、あなた自身を神様にささげること、そしてみんながベストを尽(つ)くして神様にお仕(つか)えし、神様を礼拝するときに、神様の御栄(みさか)えがあらわされる。他の人をうらやましいと思うことはなくなる。

  中途半端(ちゅうとはんぱ)な状態でいると、他の人がうらやましくなったりする。しかし、自分で毎日最善を尽くすことは、本当に喜びである。

  私たちは、手の小指がなくてもよいと思っても、小指がないと包丁を握(にぎ)れない。包丁(ほうちょう)をしっかりと握るのは小指だからである。むかし侍(さむらい)は、小指を大事にしたという。なぜならば、侍は親指と小指で刀(かたな)をしっかりと持って、左右(さゆう)に振(ふ)ることができるからである。ゴルフのクラブを握るときも小指がたいへん大事である。手の小指も脚(あし)の小指も大切である。足の小指は体重をしっかり大地につけるために必要である。

  普段、何にも役にたたないと思っても、神様が目的をもって備(そな)えてくださったたいへん重要なものである。

  耳が「たまにはゆっくりしたいから。」と言って休んだらどうだろうか。体(からだ)は教会に行って、目は牧師の方を向いている。しかし、牧師が何か話していても耳は休んでいるから、全然わからない。じゃあ、居眠(いねむ)りしましょうか、になってしまう。耳もしっかりと役割を果(は)たさなければならない。目も手も口も、あらゆる部分が集中して、力を合わせることによって、キリストの体は生きたものとして力を発揮するのである。

  ・・・思うべき所(ところ)を超(こ)えて自己(みずから)を高(たか)しとすな。神のおのおのに分(わか)ち給(たま)いし信仰(しんこう)の量(はかり)にしたがい慎(つつし)みて思(おも)うべし。
             ロマ書一二章三節

  神様は私たちに「自分の才能を誇り高ぶってはいけない。」とおっしゃる。あなたの能力は、神様によって与えられたものである。神様はあらゆる機会を通して、あなたを訓練してくださったのである。だから誰一人、それを自慢にしてはならない。

  ボッブ・ジョウンズ一世は、これを学生にくりかえしくりかえし、いましめておられた。ボッブ・ジョウンズ大学には、有名な伝道者の子供、宣教師・牧師・執事の子供などがたくさん入学してくる。入学したばかりの学生達は「こんな狭いところで。」とか「厳(きび)しいルールがあって。」と文句(もんく)を言うからである。    (続く)

 

 

 

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