◆ ロマ書の学び(296)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年八月十六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

愛には虚偽(いつわり)あらざれ、悪はにくみ、善はしたしみ、 兄弟の愛をもて互いに愛(いつく)しみ、礼儀をもて相譲(あいゆず)り、 勤(つと)めて怠(おこた)らず、心を熱(あつ)くし、主につかえ、望(のぞ)みて 喜び、患難(なやみ)にたえ、祈りを恒(つね)にし、聖徒の缺乏(とぼしき)を 賑(にぎわ)し、旅人(たびびと)を懇(ねんご)ろに待(もてな)せ。
   ロマ書一二章九節〜一三節

  ロマ書一二章の九節から一三節には、神様を重(おも)んじるクリスチャン同士の交(まじ)わりについて書いてある。それに続く一四節から二一節では、クリスチャンとクリスチャンでない人々との日常生活における交わりについて書かれている。

  クリスチャン同士の交わりは、もっとも身近な交わりとして考えることができよう。クリスチャン同士の結婚をしたご夫婦、また同じクリスチャン・ホームの子供達と親との交わりが考えられる。

  一二章を読むたび、一つ一つの言葉を取り上げるたびに、自分自身の心、また自(みずか)らの日々の生活の中におけるできごと、言葉や態度(たいど)、そして家族との接し方について反省することが多くある。 愛には、いつわりがあってはならない。

  悪はにくみ、善はしたしみ・・・。

  愛に偽(いつわ)りがあるだろうか。もちろん愛という目に見える形をとりながら、心の中では全く違うことを考える時もある。心を痛める様々な新聞の社会面に出てくる、いまわしい事件もその一部であろう。 人間は、口では愛すると言うがその実体は、相手を利用することがたいへん多い。

  以前、キャンベル・モルガンという註解者(ちゅうかいしゃ)の言葉を大変な驚きを持ちつつ皆さんに紹介した。それは『信仰のない人たちは、他人に出会ったときに相手の目を見つめながら、どのようにしてこの相手を利用することができるだろうか、ということを考える。』という言葉である。クリスチャンにも、ある意味でその言葉に共通する思いがないだろうか。「教会に行って自分はどんな得があるだろうか。」「どんな利用ができるだろうか。」ということをつい考えることがないだろうか。

  実は、教会には自分の交際相手を探しに来る人もいる。過去に実際に何人かそういう人がいた。電車に乗っていてすごく感じのよい女性がいた。その人の後をずっと追ってみたらこの教会に来た、というわけである。教会に来ればその女性と交際ができるかもしれないと来会した男性が、ずいぶん前の話になるが実際にいた。 (続)

 

  ◎ピリピ書四章八節・九節を覚えましょう。


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