◆ ロマ書の学び(297)
愛には虚偽(いつわり)あらざれ=@ ロマ書一二章九節 アメリカでも、あの女性とつきあいたいからと、教会に行く男性がいる。私の交わりをしているご夫婦の中にもそのような方がいる。これは良いケースで、彼は後に救われて心をひかれた女性と一緒になり、今でも忠実に教会でご奉仕をしている。いろいろな動機があり、いろいろな形で教会に足を運ぶ人がいるものである。 ロマ書一二章を読むと、愛にはいつわりがあってはならない、と教えている。 「恋は盲目(もうもく)である」とよく言われる。相手に恋をして夢中になっている時には相手の「あばたもえくぼ」に見える。相手の悪いところが見えなくなってしまい、相手の良い所だけが自分の目につく、という状況である。ところが、いざ結婚し自分の目的を果(は)たしてしまうと、今度は相手のあらだけが目についてくる。相手のあら探しが、お互いのけんかの種(たね)になってしまうことが往々(おうおう)にしてある。 クリスチャンの結婚というものは、まず第一に、一目惚(ひとめぼ)れという形ではなく、もっと聖書の教えにのっとった愛の結びつきでなければならない。 使徒パウロは、コリント前書一三章で次のように教えている。子供の時は子供のように愛するが、大人になってからは大人の愛をもって愛しなさいと。子供の時の愛は、自分に食べ物を食べさせてくれる人、自分をかわいがってくれる人を愛する。 しかし、大人になってからは、理性的な愛でなければならない。同じ神様を礼拝する者として、信仰によって結び合わされる愛でなければならない。神様の救いをいただいた私たちが神様のみ言葉に根ざした家庭を築いていくことが大事である。 さいきん、中学生でも自分の洋服やゲーム機器がほしいからと自分の体を売ってお金をもうける例がしばしばマスコミに取り上げられている。しかし、そうした営(いとな)みは、決して本当の意味での人間の愛を育(はぐく)むものではない。携帯電話(けいたいでんわ)、あるいはパソコンを通して、すでに家庭生活を営んでいる家庭の主婦が出会い系サイトなどで見ず知らずの人とお互いの快楽を求めていくということもあるとか。これはまさに現在の汚(けが)れた、愛とは言えない、人間の欲望(よくぼう)の交わりと考えなければならない。 神様は、愛には偽(いつわ)りがあってはならない、本当に正直な愛でなければならない、とまず教えていらっしゃる。 (続く)
◎ 暗誦聖句 ピリピ書四章八節
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