◆ ロマ書の学び(298)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年九月六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

   愛には虚偽(いつわり)あらざれ、悪はにくみ、善は親しみ、 兄弟の愛をもて互いに愛(いつく)しみ礼儀をもて相譲(あいゆず)り=@            ロマ書一二章九〜一〇節

  ロマ書一二章にはさらに、多くのクリスチャンが誤解(ごかい)をする「愛」という言葉について書いてある。 多くの人がこの聖句の字づらだけを読み、クリスチャンは絶対怒ってはいけない、絶対憎んでもいけないと考えてしまう。神様が愛するものをクリスチャンは愛する。しかし、神様がお嫌(きら)いになり、憎むことは、クリスチャンも憎まなければならない、という側面(そくめん)があることを忘れてはいけない。私たちは「クリスチャンは愛であるから何でもかんでも全(すべ)てのものをすっぽり覆(おお)ってしまわなければならない。」と考えてしまう。 6

  しかし、パウロはここでまずはっきりと、悪(あく)は憎みなさいと言っている。神様が憎む悪はあなたも憎まなければいけない。善(ぜん)には親(した)しみなさい。神様の基準に照(て)らして良いと思われること、善は積極的に求めていきなさい、と教えているのだ。

  なぜ使徒パウロはここで善は親(した)しみ、悪は憎(にく)み≠ニ言わなかったのだろうか。私たちは、ここに記されている順番にも注意をしなければならない。

  兄弟の愛をもて互(たが)いに愛(いつく)しみ、礼儀をもて相譲(あいゆず)り≠ニある。兄弟の愛をもって互いにいつくしむとは、クリスチャン同士の愛の交(まじ)わりをさす。お互いに相手のことを気遣(きづか)い、祈りにおぼえる、という姿をさしている。

  さらにここで使徒パウロは、コリント前書一三章でも教えているように、礼儀(れいぎ)をもって相譲り≠ニいう言葉を挿入(そうにゅう)している。

  現代の日本社会は、お互いのつきあいの中で、礼儀や作法(さほう)が守られていない時代だと思う。たとえば、パソコンを使う時はどうだろうか。手っ取り早く、すぐに用事が済(す)むからとパソコンを使用する方も多いと思う。手書きの手紙であれば省(はぶ)かないあいさつの言葉や相手に対する作法というものが、Eメイルでは欠(か)けていることが多いように思う。 用件のみを書く、非常にぶっきらぼうなメイルがたくさん入ってくる。

  しかし、これはクリスチャンはとくに注意しなければならない。Eメイルのやりとりとはいえ、コミュニケーションである。相手はEメイルを通して、発信した人間の心をつかもうとするわけであるから、当然、そこに相手の立場、相手の状況を気遣(きづか)う思いがなければならない。                     (続く)

 

◎ 暗誦聖句 コロサイ二章一六節 

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