◆ ロマ書の学び(301)
勤(つと)めて怠(おこた)らず、心を熱(あつ)くし、主につかえ、 誰かが見ていようが見ていまいが、それは問題ではない。私たちは神様にお仕えする思いを持って、しっかりと仕えることが大切なのである。
喜ぶ者と共によろこび、泣く者と共になけ。 愛する家族を亡(な)くして泣いている人と共に泣くことは、経験があろう。しかし、喜んでいる人と一緒に喜ぶことはたいへんむずかしい。他人が大きなプレゼントをもらったり、試験に受かった時に「良かったね。」と本気で喜べるだろうか。「なんだ、安っぽい物をもらって。」とケチをつけたくなる。「私だってできる。」と。じつは泣く者と共に泣くことは、信仰のない人にもできる。けれども、本当に喜ぶ人と共に喜ぶことはたいへん難しいことなのである。 なぜだろうか。私たちのうちにある「自我」が働くからである。そして、自分の得(とく)にならないもの、自分に益(えき)にならないものには、すぐそれをけなしたりねたましく感じる思いがわきあがってくる。そのため口では「おめでとう」と言いながら、心の中ではそれとは反対の思いが沸き上がってくることが多い。 昔から、映画俳優や役者は「泣くのは誰にでもできる」と言う。どんな下手(へた)な役者(やくしゃ)でも、泣くことはできる。しかし、本当に心から笑うことは難しいと言われている。泣くという行為(こうい)は誰にでもできる。だから本当に優秀な役者というのは、心から笑い声を発することができる人らしい。 クリスチャンは、心の底から相手と共に本当に喜ぶことができるような、神様からいただく喜びに満たされた人物である。相手と共に立つことができる姿、これは生涯をかけて克服しなければならない課題である。 英語に「シンパスィー」同情するという単語がある。同じような言葉に「シンフォニー」がある。シンは「同時に」フォニーは「音」ということで、同時に音が出ることをさす。シンパスィーの「シン」は「同時に」で「パスィー」は「感情」をあらわす。同じ感情、同情という意味である。 クリスチャンでも、本当の意味で、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶことは難しい。私たち人間はいつも自分が中心であり、自分が王様であるからだ。 (続く)
◎ 暗誦聖句 箴言二三章二六節
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