◆ ロマ書の学び(304)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年一〇月一八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  エホバの目は何処(いづく)にもありて悪人(あしきひと)と善人(よきひと)とを鑑(かんが)みる。
     箴言一五章三節

  やはり私たちは、神様がいつもご覧になっている、ということを意識しなければならない。 ロマ書一二章一七節から二一節のところは、むずかしい箇所である。

悪をもて悪に報(むく)いず、凡(すべ)ての人のまえに善(よ)からんことを図(はか)り、汝らのなし得(う)るかぎり力(つと)めて凡(すべ)ての人と相和(あいやわ)らげ。

 愛する者よ、自(みずか)ら復讐(ふくしゅう)すな、ただ神の怒(いか)りに任(まか)せまつれ。

 録(しる)して『復讐するは我(われ)にあり我これを報(むく)いん』とあり。

『もし汝の仇(あだ)飢(う)えなば之(これ)に食わせ、渇(かわ)かば之に飲ませよ。なんじ斯(か)くするは熱(あつ)き火を彼の頭(こうべ)に積(つ)むなり。』

 悪に勝たるることなく、善(ぜん)をもて悪に勝て。

   二〇〇一年九月一一日のアメリカにおけるテロ事件をみなさんも覚えていることと思う。この後の一連の出来事はクリスチャンにはたいへん難しい、判断の分かれるところであろう。実際クリスチャンの世界でも、とらえ方の違いがたいへんはっきりと浮き出た。

  基本的に私は、ロマ書におけるこの教えは「個人対個人」のことを教えていると考えている。なぜならば、パウロは一三章では「国と個人との関係」について教えているからである。ちなみに、山上の説教でもイエス様は「国と国の関係」についておっしゃっているのではない。「個人対個人」のことを話していらっしゃるのである。

  以前、ソビエトの首相が有名なカトリックの寺院を訪れた時のことである。彼はリポーターにこういう事を語った。「共産主義とキリストの教えの間には共通点がある。けれども私は一つのことにおいて、キリストと同意できない箇所がある。キリストは『右の頬(ほお)を打たれたら左の頬を出せ。』と言ったが、私は右の頬を打たれたら相手の左の頬を強く打ち返す。相手の首がコロンと落ちるまで強く叩く。」と。

彼は相手を殴り殺してしまうと言ったのである。これは何も彼に限ったことではないだろう。私たちの心は、自分のした悪いことは忘れやすいが、他人のした悪い行いを忘れることはたいへん難しいものである。

  誰かに教わったわけでもないのに、できる限りの復讐を自分の手で行おうとする。しかし、イエス様は『敵を赦(ゆる)せ。』とおっしゃった。

  わかっていても、いざ行うとなると難しい。

 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝一二章五〇節
誰にても天にいます我が父の御意(みこころ)をおこなう者は、 即(すなわ)ち我が兄弟、わが姉妹、わが母なり

 

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