◆ ロマ書の学び(308)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇九年一一月一五日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  いよいよロマ書一三章の学びに入る。ロマ書一一章までは教理の問題を取り上げてきたが、一二章からは具体的な日々の生活に関することがらについての神様の教えを学んできた。

  凡(すべ)ての人、上にある権威に服(したが)うべし。そは神によらぬ権威なく、あらゆる権威は神によりて立てらる。この故に権威にさからう者は神の定(さだ)めに悖(もと)るなり、悖(もと)る者は自(みずか)らその審判(さばき)を招かん。長(おさ)たる者は善(よ)き業(わざ)の懼(おそれ)にあらず、悪(あ)しき業(わざ)の懼(おそれ)なり、なんじ権威を懼(おそ)れざらんとするか、善(ぜん)をなせ、然(さ)らば彼より譽(ほまれ)を得(え)ん=@    
  ロマ書一三章一〜六節

  聖書の中で権威という言葉が出てくる時、神様がこの宇宙をお造りになられたという秩序を思い起こす。

  一方、権威に逆らうことが多くの若い人達にとっては人間の生きている証しと誤解をされている節(ふし)があると思う。権威について語る時に、若い人達の反対の声、抵抗の思いを受け止めながら考える必要があろう。その上で、すべての権威、たとえば国家の権威とか社会の秩序というものをなぜ人間が重んじなければならないのかということも考えていかなければならない。

  使徒パウロがロマ書を書いた時代は、現在のような平和な時代ではなく、ローマの政府が強大な力と軍隊とをもって世界を治めていた時で、特に暴虐(ぼうぎゃく)な皇帝(こうてい)がおさめていた時代であった。聖書の中の権威に従いなさい。≠ニいうみ言葉を読む時、正しい民主的な政府であるならばその権威に従うことができるだろう。しかし、私達は「でも」という言葉で、権威に逆らう思いが強く湧いてくる。当然のことながら、神様は政府だけでなく、まず子供が親に従うということを教えておられる。

  子供がなぜ親に従わなければいけないのか。多くの若者達が親に反抗し、学校の先生に反抗し、社会に反抗する。終電をすぎ、深夜まで若者達がコンビニあたりにたむろし、タバコを吸ったり酒を飲みながらくだを巻いて、そこで一晩を過ごす姿が見られる。こういう若い人達は、親の権威に逆らうことが自分たち若者の特権であるかのような誤解をしている。

  教会周辺も一時期、見苦しい落書きが多かった。落書きをしている人達は面白半分かも知れないが、どんなにそれが他人に不愉快な思いを与え、持ち主に嫌な思いをさせていることか。持ち主が一生懸命、何時間もかけて消しておられたが、悪行のあとは消えずに残っている。

 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝二八章一九節
然(さ)れば汝ら往(ゆ)きて、もろもろの国人(くにびと)を弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施(ほどこ)し、

 

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