◆ ロマ書の学び(318)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一〇年二月七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  特別な地域、あるいは民族に対する重荷(おもに)があれば、それは、宣教師の召(め)しにつながっていく。

  牧師となる場合には、神様の福音を一人でも多くの人たちに宣(の)べ伝えていきたい、聖書をもっとしっかり勉強して、他の人たちに御言葉(みことば)をのべ伝えることができるようにと、神学校に行く。宣教師志願者も同じである。

 されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧(すす)む、己が身を神の喜(よろこ)びたもう潔(きよ)き活(い)ける供物(そなえもの)として献(ささ)げよ、これ霊の祭なり。又この世にならうな、神の御意(みこころ)の善にして喜ぶべく、かつ全(まった)きことをわきまえ知らんために心を更(か)えて新(あらた)にせよ。
        ロマ書一二章一、二節

 「献身(けんしん)」という言葉の中には二種類の使い方がある。「献身」とは、自分自身を神様にささげることである。そして、すべてのクリスチャンは、ロマ書にあるように「献身」を求められている。これが第一の使い方である。

  もう一つの「献身」という言葉の使い方は、その中でも特別に神様のお働きを担(にな)っていく働きをさし、牧師、伝道者あるいは宣教師という形である。

  これは自分が献身するというだけでなく、神様の側(がわ)から「あなたは私の仕事のために、私に仕(つか)えていきなさい。」という召(め)しが与えられる。かつてのレビ部族のように、はっきりと神様に生涯(しょうがい)フル・タイムでお仕えする形で召されることがある。これを「召命(しょうめい)」というが、召命は神様の側から「あなたの人生、才能、凡(すべ)てを私にささげなさい。私はあなたを正しく訓練し、伝道者として遣(つか)わします。」という形で、召しをいただくものである。

  多くの場合、そうした「召命」というものは、皆さんが聖書を読み、祈っていて「神様。私は何もできませんけれども、どうぞ私をお使い下さい。どうしても、他の人々に福音を伝えたいのです。救霊、宣教の働きに、全生涯をおささげします。この世の中の職業ではなく、ただひたすら、神様にお仕(つか)えしたいです。」という思いを持って身をささげる時に、これを「献身」という。これが、伝道者となるための献身である。

  しかし、神様からの召し(=召命)がなく、自分だけの思いで献身したんだと言って始めても、長続きはしない。必ず、挫折(ざせつ)をする。伝道者の生涯というものは、自分の才能にはよらないからである。自我を砕(くだ)かれ、自分の才能のすべてを神様に明け渡す時、自分の力でではなく、神様にお仕えしていく献身の召命といえる。

  くどいようであるが、「献身」というのはイエス様を信じ救われた者すべてが、神様に身をささげることなのである。                 (続く)

 

◎ 暗誦聖句 使徒行伝二章四〇節

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