◆ ロマ書の学び(323)
汝等(なんじら)たがいに愛を負(お)うのほか何をも人に負うな たとえば、牧師が引退後のついの住みかとして妻がのんびり暮らせるように三億円のマンション一室を買ったとする。「東京の赤坂に良い出物(でもの)があったから。」と言ったとしたらどう思われるだろうか。きっと多くの方が「牧師、ちょっとおかしいんではないですか。」と言うと思う。教会は、毎月どれくらい謝儀を牧師に渡しているか、わかるからである。その牧師の収入から考えて、三億円のマンションを買う、しかも引退して仕事がなくなり収入も減るのに、牧師夫人一人のために高級なマンションを買うことは常識外である。 けれども、牧師夫妻の老後のために仮(かり)に二部屋ないし三部屋の中古マンションを一〇〇〇万円ぐらいで探すのはどうであろうか。何億円にならない一〇〇〇万円単位で買うことはそれほど突拍子(とっぴょうし)もないことではない。二〇〇〇万円以内で買うことができるということであれば、何とか牧師夫人が知恵を働かせて蓄(たくわ)えておこうかなと考えて、また教会が+(プラス)α(アルファ)をしてお世話できれば具体的な可能性がないわけではない。その教会なり、本人なりの収入と自分たちの責任を負うことができる範囲が常識の範囲内にあるからである。 使徒パウロは、愛のほか何をも人に負うなと言った。 お金というものは、仮に一〇〇万円借りたならば、一〇〇万円にお礼をプラスして、お返しすればよい。あくまでも計算上であるから、数字であらわす事ができる。 けれども、「愛」というものは目方(めかた)で量(はか)ることができない。あるいは、金額でそれを換算することができない。 仮に子供が病気の時に、一週間寝ずの看病をしたとする。子供が治(なお)った時に母親が一週間寝ずの看病をしましたから一日一万円として一週間分を請求したとする。しかし、あなたが愛情をこめて看病したことは決して一万円では返せない。というのは一万円もらったからといって、一週間全く寝ないで看病できるかというと、これは健康的に、不可能だからである。でも子供が死ぬか生きるかという病気になると、親は三日でも四日でも徹夜をする。そして、自分の体を割(さ)いても切っても子供の延命を祈るのである。 これはもうお金では換算できない、母親や父親の愛情であるからである。
◎ 暗誦聖句 コリント前書三章六節 |