◆ ロマ書の学び(330)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一〇年五月九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

  兄弟の前に妨碍(さまたげ)または躓物(つまずき)を置かぬように心を決(さだ) めよ。…汝らの善(よ)きことの譏(そし)られぬようにせよ。=@              

   ロマ書一四章一三節 使徒パウロがローマにいたクリスチャン達にこの書簡を送った当時、実はコリントの教会でも「肉を食べて良いかどうか」という問題がたいへん大きな論争になっていた。一つには、偶像に捧げた肉をどうとらえるかという点があったと、パウロはコリント前書で書いている。

  ギリシャには、神話の世界から様々な偶像、ゼウスやバッカスなど神話の世界から神々がまつられていた。私もアテネを旅した時に、数え切れないほどの偶像があるのを見て、パウロが胸を焦(こ)がして怒(いか)り心頭(しんとう)に発(はっ)した気持がよくわかった。

  そこは、まさに神話の世界であり、真(まこと)の神様に対する大きな反逆があちらこちらで見られた場所であった。今から二〇〇〇年ほど前のロマ書が書かれた当時、ギリシャやローマの地域では、人々が肉を食べることがたいへん盛んであった。

  日本人はどちらかというと菜食主義、肉を食べるよりも野菜や果物を食べる民族で、肉を食べる国の方々には申し訳ないが、以前は性質が穏やかだと言われていた。

  五〇年近く前、アメリカから日本の古い移民船で帰国した際に、日本の大きな博物館の館員と同船した。彼は「アメリカ人は肉を食べるから血気盛(けっきさか)んで、日本人が穏やかなのは野菜を食べるからだ。」と滔滔(とうとう)とまくしたてていた。確かに、野菜を食べずに肉ばかり食べていると、血液はサラサラではなくドロドロになってくる。だからケガをしてもシャーッとではなく、ドロリと出血してくる。

  創世記を見てもわかるように、もともと神様は、人間が地にあるすべてのものを支配し管理するように、またこれらを食物として摂取してよいとおっしゃられた。

  しかし、長い年月がたって後、イスラエルの民は移住先のエジプトで奴隷として苦役を強(し)いられることとなった。神様の介入により、ようやく自由の身となりエジプトを出てカナンの国をめざして荒野を旅する生活を始めた。荒野では当然、今のように洗剤もないし、砂漠の中だから水もない。洗うことさえままならない状態であった。そこで神様は衛生の面からも、健康上の理由からもレビ記を通し「汚れたもの」と「きよいもの」をお示しになられたのだろう。

  世界には、現在でも宗教上の理由で牛を食べてはいけないインドや豚を食べてはいけない国々がある。(続)

 

 

◎ 暗誦聖句 ヘブル書九章二二節前半
おほよそ律法(おきて)によれば、萬(よろづ)のもの血をもて潔(きよ)めら る。

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