◆ ロマ書の学び(332)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一〇年五月二三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  偶像の供物(そなえもの)はあるものと言うか。また偶像はあるも のと言うか。=@    コリント前書一〇章一九節 すべて市場(いちば)にて売る物は良心のために何をも問(と)わずし て食(しょく)せよ。そは地と之(これ)に満(み)つる物とは主の物なれば なり。=@
    コリント前書一〇章二五〜二六節

  パウロが肉を食べることに言及(げんきゅう)していたのには、当時のコリントの特別な事情が関係していた。偶像崇拝が盛んなアテネやコリントでは、人々が神殿で神話の世界の神々に対して動物の肉をささげた。動物を犠牲(いけにえ)としてささげた者の多くは金持ちであった。

  一方、コリントの教会に集まっていた人々はあまり裕福ではなく、どちらかというと社会的にも経済的にも下層階級が多かった。そして、このささげられた後の肉をどう考えるかが争点であった。一度いけにえとして祭壇にささげられた肉は市場にまわされ、お下(さ)がりの肉だから安くで売られていた。祭壇にささげる前の肉はたいへん高かったが、一度役目を果たした肉は、うんと安い値段で市場に流された。

  そのため、貧しいコリントのクリスチャン達はそれを買って食べていた。それを知った一部のクリスチャンたちが「彼らは偶像にささげた肉を食べているじゃないか。彼らは間違っている。」と批判した。ある人達は肉を食べてはいけないと考え、またある人達、信仰の強い人たちは「いや、肉を食べても平気だ。」と考えて論争がおきた。そうした姿が使徒パウロにこのテーマをあたえたのであろう。

  なんじら信仰の弱き者を容(い)れよ。その思うところを詰(なじ) るな。在人(あるひと)は凡(すべ)ての物を食(くら)うを可(よ)しと信じ、弱き 人はただ野菜を食(くら)う。食(くら)う者は食(くら)わぬ者を蔑(なみ)すべ からず、食(くら)わぬ者は食(くら)う者を審(さば)くべからず。神は彼 を容(い)れ給(たま)えばなり。なんじ如何(いか)なる者なれば、他人 の僕(しもべ)を審くか。=@
    ロマ書一四章一〜四節

   パウロはコリント前書一〇章で「もともと偶像は実在しないものである。実在しないものにささげた肉が、市場で安く売られているのだから、食べても問題はない。すべて地とそれに満ちているものは、主のものだから、どれでも食べてよい。ただ、他人の良心のつまずきとならないように、そして互いの徳を高めるように心がけなさい。」と書き、市場で売っている肉を食べる者を審(さば)いてはならない、かえって私たちの言動すべてが神様のご栄光をあらわせるようにと教えたのである。

  さらば食(くら)うにも飲むにも何事(なにごと)をなすにも、凡(すべ)て神の栄光を顕(あらわ)すようにせよ。
   コリント前書一〇章三一節 (続)

 

 

◎ 暗誦聖句 使徒行伝四章三二節

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