◆ ロマ書の学び(337)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一〇年六月二七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  されば我ら平和のことと互いに徳を建(た)つることとを 追い求むべし。
  ロマ書一四章一九節

  「クリスチャンの信仰の自由」とは何か。

  まず第一に、「私の自由」が他の人の自由や他の人の信仰の妨(さまた)げになってはいけない、つまづきとなってはいけない、ということである。確かに、私たちは神様によって救われた者である。そして、毎日喜びと感謝の日を送ることを許されている。けれども、私は自由だからといって他人のつまづきとなってはいけない、ということである。これは、たいへん難しいことである。

  「私の罪は赦(ゆる)されたのだ。私は何をやっても自由なのだ。」とあまりにも自分のやりたいことばかりをしていたらどうだろう。他の人たちが見て、「何だ。クリスチャンでも、あんなことをしているのか。だったら自分もやっても良いのだな。」となってはいけない、ということである。

  たとえば、牧師がアメリカから帰国後「アメリカでは、大統領はじめ議員が赤いネクタイやスーツを着用するのが流行(はや)っていたから。」と、さっそく赤いネクタイをして真っ赤な洋服を着て、ということを毎週したらどうだろうか。きっと「うちの教会の牧師は、最近ちょっとおかしいんじゃないか。何か急にアメリカかぶれしちゃって。オツム(頭)がおかしくなったのか。」といわれることだろう。

  かえって「やはり日本人なのだから、日本人としてのけじめ、日本人の中で落ち着いた服装、あまりけばけばしない目立たない服装を着用して欲しい。」と牧師に求めることだろう。牧師が毎週ピンクのシャツに赤や黄色のネクタイを着用していたらつまづきになるのだ。

  何を着ても「自由」である。もちろん私も、暑い夏ならば時には家に帰ってから自宅内でTシャツ、あるいは半ズボンでリラックスすることもある。

  こうした服装や食べ物、飲む物が誰かのつまづきになってはならない、ということはクリスチャンに与えられている「自由」の原則である。

  二番目に、私たちの生活を通して、他の人たちにも「私も、ああいうクリスチャンのような生活がしたい。」と思われるような本当の喜び、すばらしい神様の愛を人々に証(あかし)することである。

  一つは消極的、一つは積極的に他の人に益となるように、自分たちが生きることが大切だと思う。
                 ( 続 く )

 

 

◎ 暗誦聖句 ペテロ後書三章二節
汝(なんじ)らの使徒(しと)たちの伝えし主なる救い主の誡命(いましめ)を憶(おぼ)えさせんとす

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