◆ ロマ書の学び(339)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一〇年七月一一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)を置かぬよう に心を決(さだ)めよ。
   ロマ書一四章一三節

   「クリスチャンの信仰の自由」とは何かを考えてきた。第一に、自分の自由が他の人の自由や信仰の妨(さまた)げ、つまづきとなってはいけない。第二に、他の人の徳をたてるようにすること。一、二とも、他人に益となるように自分たちが生きることが大切だ、という教えである。

  第三に、何を食べるにしても何をするにしても信仰によらなければそれは罪だ、ということである。疑いながら口にする食べ物や行いは罪である。

  ある伝道者がよく「疑わしいときには、安全で行きなさい。」と語っていた。良いかどうか疑わしい時には、安全な方をとりなさい、という意味である。

  やくざや闇(やみ)の世界でないかぎり、あなたの職場や仕事自体は悪くはないはずだから自分がやっていることに自信を持とう。もし自信がなければ、神様に祈ってその仕事や働きに喜びと感謝ができるようになって欲(ほ)しい。どんなことであっても、疑いながら、「ああ。誰かが見ていないかな。」という生活は良くない。

  夕方薄暗くなった時、道を歩いているとひらひらっと紙が飛んできた。よく見てみると一万円札だった。あなたならとっさにどうするだろうか。交番に行くべきか行かざるべきか。日本人は「魔がさす」という表現をして悪いことをやってしまうが、クリスチャンは、たとえ、僅かな金額であっても交番に届ける。それは良心の為であり、クリスチャンとして証のためでもある。

   アメリカでインネス博士が「ステーキを焼くから肉を買いに行こう。」と誘ってくれた時のことである。フィレ・ステーキの固まり四八〇〇円のものになんと八〇〇円という値段がついていた。他の物はみんな四八〇〇円。インネス先生は「もうかった。これを買っていこう。」と言ってその肉を持って担当者の所に行き「すごいバーゲン品を見つけたよ。」と言って「正しい値札(ねふだ)を打ち直して下さい。」と渡した。

  私たちも時々、買い物でおつりが余分(よぶん)に入っていたり、値札のつけ方が間違っているのを見ることがある。法律的には、値札が貼(は)ってあれば、たとえ間違いであっても安価で買える。店側の負けである。けれども、それを平然とすることをクリスチャンの良心が許さないわけである。誰が見ていようと見ていなかろうと、神様の前に正しい行為(こうい)をしようとする。これがクリスチャンの自由の権利であり、証なのである。
      (続く)

◎ 暗誦聖句 マタイ伝一三章四五節
また天國(てんごく)は良(よ)き真珠(しんじゅ)を求(もと)むる商人(あきうど)のごとし

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