◆ ロマ書の学び(342)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一〇年八月八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。
   ロマ書一四章一三節

  クリスチャンの「自由の原理」の第三番目として使徒パウロが書いたことは、食べ物や何かの行動において、「疑いながらやることは、あなたにとってわざわい、罪になる」ということである。

  たとえば、日本人の身近な問題としてぶつかる「葬儀への出席」がある。ある人たちは「私は心の中で神様を信じているから、亡(な)くなった方に手を合わせても、それは亡くなった人に対しておじぎをして(拝んで)いることにはならない。」と言う。しかし、それは原則と照らし合わせるなら間違いであると言えよう。

  信仰の弱いクリスチャンに「熱心なクリスチャンであるはずの人が、 お寺での葬儀に出席し焼香して、亡くなった人に手を合わせていた。だから、私達が手を合わせて拝(おが)むことは決して悪いことではない。」ということになり、つまづきとなる。また、未信者に「他のクリスチャンは拝んでいるのに、拝まない人は愛がない。」と非難されるきっかけとなる場合もあるが、私たちは、まことの神様(創造主)以外に拝礼をすべきではない(出エジプト二〇章三節)。

  私は子供の頃、おはぎが大好きであった。あずきのつぶつぶの甘味が口の中に広がるのが、たまらない。我が家は父が熱心な仏教徒であったから、新しく作った料理は、まず仏壇に供えるのが常であった。このことが、私がクリスチャンになった時には大変な抵抗となった。

  「はたして、仏壇や神棚に供えた食べ物を食べていいのだろうか。」と思ったからである。家内の実家も仏教徒の家庭であるから、京都の実家には大きな仏壇があり、他人から頂いたものはまず仏壇に供えてしまう。もてなす側が「ご先祖様、頂きますよ。今日はお客様ですからね。」と言って仏壇からお下(さ)がりとして持って来て、あなたの目の前で袋を開け「さあ、どうぞ。」と出された時にどうするか。

  賢いやり方かどうかわからないが、実家に帰省した際にそういう場面に遭遇したら、はじめから「私の分は仏壇に供えないでちょうだい。」と言って、横に取り除けておいてもらったらいいのではないだろうか。そうはいかないという場合はどうするか。「つまずきとなるようならば、私はそれを食べない。」とパウロは言っている。おはぎは何もその場所にしかないわけではなく店に行けばいくらでも買うことができる。特別な物であってもお金を出せば買うことができるからである。 (続く)

 

 


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