◆ ロマ書の学び(344)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一〇年八月二九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  み言葉に沿(そ)って行動をしたことにより、その当座は恥ずかしい思いをすることがあるかもしれない。時には酒をかけられたり、お膳(ぜん)をひっくり返されたりという暴挙があるかもしれない。けれども、それを耐(た)えることによって、皆さんは他の人々の前に大きな証をすることができるのである。

  以前、私の英会話の恩師の出版記念パーティを開くことがあった。あるホールを借り、二百名ほどの有名な人達が集まるパーティの司会を私が仰(おお)せつかった。来客の中から祝辞(しゅくじ)を述べてもらう段になり、一人の学者が自分の学問的な成果を披露(ひろう)しようと思ったのか二、三分ほどに予定されていた持ち時間をはるかにオーバーし、一五分もスピーチを続けた。

  そのパーティは二時間という限られた時間であったから、司会者としてその学者に一、二回注意を促した。するとその学者は、大勢の前でいきなり私の頭をなぐりつけた。なぐられた私はニコニコしていたか、顔が引きつっていたかわからないが引き下がった。

  その後、有名な歌手やNHKのアナウンサーが私の所に来て「あなたはあの時、よくがまんしましたね。」と言ってくれた。司会者という権限をもって私が学者を止めることはできた。しかし、そのような公の席で私が自分の立場を守ろうとするなら、その場に集まって来たお客様全体に嫌な思いをさせることになる。自分一人が恥ずかしい思いをしたとしても自分が我慢すればいいと思って、私は引き下がった。

  私たちはとっさの時に、どこまで自分が身を引き、他の人々の徳を建てるように考えることができるか、これは日々の生活の中で考えていかなければならない。

  パウロはロマ書一五章において、さらにそのことについて書いている。

  われら強き者はおのれを喜ばせずして、力なき者の弱きを負うべし。おのおの隣人(となりびと)の徳(とく)を建(た)てん為(ため)に、その益(えき)をはかりて、之(これ)を喜ばすべし。キリストだに己(おのれ)を喜ばせ給(たま)わざりき。

  録(しる)して「なんじを謗(そし)る者の謗(そし)りは我に及(およ)べり」とあるが如(ごと)し。はやくより録(しる)されたる所(ところ)は、みな我らの教訓(おしえ)のために録(しる)ししものにして、聖書の忍耐と慰安(なぐさめ)とによりて希望(のぞみ)を保たせんとてなり。

  願わくは忍耐と慰安(なぐさめ)との神、なんじらをしてキリスト・イエスにならい、互に思(おもい)を同じうせしめ給(たま)わん事を。これ汝(なんじ)らが心を一つにし口を一つにし我らの主イエス・キリストの父なる神を崇(あが)めん為なり。
    ロマ書一五章一節〜六節

 


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