◆ ロマ書の学び(346)
人、よろしく我(われ)らをキリストの役者(えきしゃ)また神の奥義(おくぎ)を
掌(つかさ)どる家司(いえつかさ)のごとく思うべし。さて家司に求むべき は忠実ならん事(こと)なり。我(われ)は汝らに審(さば)かれ、或(あるい)は人の 審判(さばき)によりて審かるることを最小(いとちいさ)き事(こと)とし、自(みずか)らも 己(おのれ)を審かず。…我をさばき給う者は主(しゅ)なり。
按手礼式(あんしゅれいしき)の時に、何か色紙(しきし)に書いて欲しいと頼(たの)まれると、私はたいていこのコリント前書の聖句(せいく)を書く。これから伝道者として出て行こうとする兄弟たちに贈(おく)る聖句として選んでいる。 私たちは、右や左を見て「皆がやるから」「多くの教会がやるから」ということで物事を決(き)めてはいけない。神様にお仕(つか)えする伝道者にとって大事なことは人を喜ばせることではなく、まことの神様に喜ばれること≠ナある。まことの神様こそ最終審判者(ジャッジ)でいらっしゃる、ということを毎日確認していくことだ。
私たちが他の教会と交(まじ)わったり妥協(だきょう)しないと「習志野バプテスト教会は独善的だ。」とか「自分たちだけ偉そうに振舞(ふるま)っている。」などと言われる。けれども、私たちはこの世の人々によって救われたのではない。また、神学校や牧師、宣教師によって救われたのでもない。
寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。=@ 私を救って下さったのは、この聖書をお与え下さった創造主(そうぞうぬし)でいらっしゃる真(まこと)の神様である。だから、私たちは神様にだけ忠実(ちゅうじつ)であるように、ということをおぼえなければならない。神様に忠実でなければ、どんなに人間社会で善(ぜん)を施(ほどこ)そうと、すばらしい社会福祉をやってほめられようと、何の価値もない。 子供の兄弟げんかを見ていると、はじめは口げんかで、やがておもちゃを投げたり暴力(ぼうりょく)をふるうようになってくる。それを見ていたお母さんは、たいていの場合「あなたはお兄ちゃんでしょ。この子はまだ小さいんだから…。」といって兄の方をしかる。すると、子供は子供ながらに抵抗(ていこう)する。母親に自分の正当性(せいとうせい)をうったえ、それでも認められないと、ふくれっ面(つら)をしてバタンとドアをしめ、自分の部屋にとじこもる。
私たちは、小さいときから「正義」とか「正しい判断」を求める。大人の皆さんが、職場や家庭において誰かが正しい判断を下(くだ)してくれるようにと願うのは当然なことであろう。
◎ 暗誦聖句 エペソ書四章二六節前半 |