◆ ロマ書の学び(366)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年二月二〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  もう私たちは何一つ隠(かく)すことはできませんという気持ちで、神様の前に立つとき、神様は「私はあなたのために救いの道を備(そな)えていますよ。」とおっしゃるのである。こうして、どのような殺(さつ)人(じん)を犯(おか)したものであっても、あるいはどのような極悪非道(ごくあくひどう)な人間であっても、イエス様の十字架の前に平(ひれ)伏(ふ)すときに、イエス様は私たちの罪、汚(けが)れを洗いきよめてくださる。しかも、それは、水のバプテスマ、洗礼ではないのである。イエス・キリストが十字架上で流してくださったご自分の血潮(ちしお)によって、神様はその血の中に隠(かく)れた私たちをご覧(らん)になり、これからは、あなたの罪を数えることをしないとおっしゃるのだ。

  イエス様は、我は世の光なり。≠ニおっしゃった。アインシュタインという科学者が、あの相対性理論を発表するに当たって何を考えただろうか。

  光はどのくらいの速さだろうか。光は、時計の音がカチッとする間に地球全体を七回もまわってしまうそうだ。「光はこの世の中で変わることのないものである。この光がなければ、私は相対性理論を発見することはできなかった」と彼は言っている。

  私たちはこの世の中の流れゆくものではなくして、全く変(か)わることのない、性質を変えることのない、イエス・キリストというお方を中心として、人生の土台を築いていきたいものである。私たちの魂(たましい)の錨(いかり)、不動の錨は、変わることのない主イエス・キリストというお方である。その上に自(みずか)らの人生を築(きず)いていかなければならない。

  「御(み)言(こと)葉(ば)に立(た)て!」「信(しん)仰(こう)に立て!」あるいは「聖書、聖書」と聞かされて窮屈(きゆうくつ)でしょうがないと思う人がいるかもしれない。

  私は、イエス様を信じる前には{恐(きよう)怖(ふ)、不(ふ)安(あん)、劣(れつ)等(とう)感(かん)、疑(うたが)い、将(しよう)来(らい)に対する不安、経済的な不安、健康の問題}などの様々なことにしばられ悩(なや)まされていた。しかし、イエス様を信じてからは、多くの人が抱(かか)えるそういう重荷から全く解放されたのである。なぜならばここにあるように、神様はイエス・キリストを信じる者たちに対して、満ちたれる祝福をもってのぞんでくださるからである。

  この故(ゆえ)にキリスト汝(なんじ)らを容(い)れ給(たま)いしごとく、汝(なんじ)らも互(たがい)に相(あい)容(い)れて神(かみ)の榮(えい)光(こう)をあらわすべし。
   ロマ書一五章七節 
    ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 エレミヤ哀歌三章二七節
人(ひと)わかき時(とき)に軛(くびき)を負(おう)は善(よ)し


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