◆ ロマ書の学び(368)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年三月六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  兄(きよう)弟(だい)よ、我(われ)らの主(しゆ)イエス・キリストにより、また御靈(みたま)の愛(あい)によりて汝(なんじ)らに勸(すす)む、なんぢらの祈(いの)りのうちに、我(われ)とともに力(ちから)を盡(つく)して我(わ)がために神(かみ)に祈(いの)れ。これユダヤにおる從(したが)わぬ者(もの)の中(うち)より我(わ)が救(すく)われ、またエルサレムに対(たい)する我(わ)が務(つとめ)の聖(せい)徒(と)の心(こころ)に適(かな)い、かつ神(かみ)の御(み)意(こころ)により、歡喜(よろこび)をもて汝(なんじ)等(ら)にいたり、共(とも)に安(やす)んぜん為(ため)なり。願(ねが)わくは平(へい)和(わ)の神(かみ)なんぢら衆(すべて)と偕(とも)に在(いま)さんことを、アァメン。
 ロマ書一五章三〇〜三三節

  使徒パウロは、ローマにいるクリスチャンたちに対してこの書簡を送った。彼が強調したところは、クリスチャンたちそれぞれが神様の御(み)栄(さか)えのため、イエス・キリストの御名のゆえに日々歩みまた信仰生活を全(まつと)うしていくように、ということであった。

  最近、さまざまなキリスト教関係の書籍を読んだり、宣教に関する雑誌やプリントなどを手にして読む時に、少々違(い)和(わ)感(かん)を感じることがある。残念なことに、その文書の大半が、実は人間的な観点にたって書かれている。自分の教会、自分の教派、宣教団体など「自分たちの働き」そのものの拡張であったり、「自分たちの団体の名誉のため」ということが際(きわ)立(だ)って目立つ時代となっているからである。この一〇数年間、いろいろなものを読んでいてその傾向はますます強くなってきていると感じる。

  それにひきかえロマ書を読むと、使徒パウロは全く違っていたことがわかる。使徒パウロ自身の異邦人伝道の最大の眼目(がんもく)は宣教師としての彼の働きが拡張することや、パウロ自身の名声ではなかった。自己的な主張、自己的な働きの拡張ということは一切(いつさい)抜(ぬ)きにして、パウロのめざしたところは、ひらすら「イエス・キリストの御名(みな)があがめられ、人々がまことの神様を礼拝し、全ての人が全能の神様の前にひれ伏し、お仕(つか)えする」という大きな目標であった。

  私たちは「救い」というと、自分の生活の安定であるとか、あるいは「人並(ひとなみ)みに必要が満(み)たされて人並みの家が持てて人並みの家庭生活が営(いとな)めるとか、これが自分のささやかな願いである。」ということをよく聞く。けれども信仰において、私たちはそうした人並みの云(うん)々(ぬん)ということではなく、いつも自分たちの目(め)指(ざ)すところは、全(すべ)てのものをおつくり下さった創造主である真理(しんり)の神様を礼拝し、真(まこと)の神様の御栄(みさか)えのために私たちが生(い)かされるということである。(続く)

 

  ◎暗誦聖句 ヘブル書四章一五節
我(われ)らの大(だい)祭(さい)司(し)は我(われ)らの弱(よわき)を思(おも)い遣(や)る こと能(あた)はぬ者(もの)にあらず


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