◆ ロマ書の学び(372)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年四月三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  幸福(さいわい)なるかな、平和(へいわ)ならしむる者(もの)。その人(ひと)は神(かみ)の子(こ)と稱(とな)へられん=@      マタイ伝五章九節

  人間の歴史を通して、私たちには本当に平和な時代というものはなかった。どこかで争(あらそ)いがあり、どこかで貧しさのために飢(う)えて死んでいく人たちがいる。私たち人間は、たいへん感情的な生(い)き物だ。テレビの画面で、貧しさと飢えで干(ひ)からびて骸(がい)骨(こつ)のようになった北朝鮮の赤ちゃんを見たりすると、胸がしめつけられて「ああ、何かしなければいけない。」と思い、アフガニスタンの飢えかわいた魂を見ると「何かしなければいけない。」と思う。しかし、そうした映像に心動かされて何かを提供(ていきよう)すればそれで済(す)むかといえば、そうではない。

  皆さんは子供の頃「一回にたくさんのご馳走(ちそう)を食べて、一週間食べずに過(す)ごせたらいいなあ。」とか、「一日二四時間寝(ね)て、あとは寝ないで過(す)ごせたらいいなあ。」などとお考えになったことはないだろうか。しかし残念なことに、「寝だめ」「食べだめ」はできないらしい。それと同じように、気の毒だと思って一時的に何か物を送ってあげても、それで事が終わるわけではない。もっと根本的(こんぽんてき)な治療(ちりよう)、根本的いやしの過程(かてい)をしなければならない。

  私たちはマタイ伝の中で「物(もの)乞(ご)い」について考える。物乞いに来る人たちに食べ物を与(あた)えていいか、という問題を扱(あつか)うことがある。先(せん)だってもお話したように、サンフランシスコでいい若者がダンボールに「何か恵んでください。」と書いて、街中(まちなか)に座(すわ)っている。アメリカはいくらでも働(はたら)くことができる。それなのに、人の善(ぜん)意(い)に媚(こ)びへつらい、お金を恵んで欲(ほ)しいという。その人たちにお金を恵んだら、彼らは真面目(まじめ)に働(はたら)くかといえば、そうではない。

  私たちには心の平安、安(やす)らぎが必要(ひつよう)だ。誰でも心の内側にある戦いと、人間の外側から来る戦いがある。子供の頃、私は父親にこう言われた。「男は一旦(いつたん)外(そと)に出ると、七人の敵(てき)があると思え!」と。それを聞いた私は、「へえーっ、そんなに敵がいるの?」とびっくりした。どこから七人の敵が攻めてくるかわからないという訳(わけ)だ。「七人の敵」とは、よく言ったものである。「七人の侍」という映画もあったが、日本人も「七」という数字が好きなようだ。

  聖書の中で「七」は完全数だが、それと全く別の観点から、聖書とは関係なく「七人の敵」と言ったのであろう。かつての日本は、男が外に出て働き、給料をもらって家に帰ってくるという生活であったから「男は外に出たら、七人の敵がいる。」という訳(わけ)だったのであろう。

 

 ◎ 暗誦聖句 ピリピ書二章五節


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