◆ ロマ書の学び(373)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年四月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  自己(おのれ)を人(ひと)と異(こと)にする者(もの)は自己の欲(ほつ)するところのみを求(もと)めてすべての善(よ)き考察(かんがえ)にもとる。                   箴言一八章一節 前にご紹介したことのあるキャンベル・モルガンの注解書の中にこういうのがあった。「信仰のない人は、他の信仰のない人を見る時(とき)に、何を考えるか?」答えは「一体、この人は私にとってどんな得(とく)になる人間かな。」と考えるという、うがった見方(みかた)をする。それを考えると何だかゾッとする。

  誰かに出会(であ)うたびに「この人間は私にとってどういう利用価値があるかなあ。」と思われていると思うと、あまり気持ちのいいものではない。でも、それは確(たし)かに人間関係の一面を表していると思う。

  仮(かり)に、粗末(そまつ)な服装をした人がKさんの家を訪ねたとしたら、その人はどんな扱(あつか)いを受けるだろうか。Kさんは、粗末な格好(かつこう)で訪(たず)ねて来た人を重要視するよりも追(お)っ払(ぱら)いたいという気持ちが先に立つだろう。

  また逆(ぎやく)に、Kさんが立派な家に住み、立派な車を持ち、素(す)晴(ばら)しい洋服を着ていたとしたら「この人と友達になったら、どんな利用価値があるだろうか。」と考えられるだろう。私たちは誰かと出会う時に、いつもそうやって利用価値があるかどうかを推(お)しはかられることがあるのだ。自分自身の心の内側には戦いがある。自分の「欲望」が、自分の歩(あゆ)みを踏(ふ)み外(はず)させるということがある。

  伝道者の生活の中には、嬉(うれ)しいこと、辛(つら)いこと、嫌(いや)なことと色々ある。喜びで満(み)たされたかと思うと、突然のように暗い、悲しい出来事がある。私たちは絶(た)えずそうした激(はげ)しい嵐の中に揉(も)まれた状態にある。そして多くの伝道者が疲(つか)れ果(は)てて伝道をやめてしまう時がある。

  スポルジョンというバプテストの有名な伝道者は、このことを「伝道者の落胆(らくたん)病(びよう)」と言った。毎日、一生懸命に伝道をしている伝道者が、突然「ああ、もう疲れた。私は伝道できない。」と言って伝道をストップしてしまうことが起こりうるのだ。「大半の伝道者がそういう経験をする。」とスポルジョンは若い伝道者の前で述べた。ということは、毎日毎日神様の御(み)言(ことば)を勉強している伝道者でさえ、激(はげ)しい戦いの中にあって目標(もくひよう)を見失うと、心の安らぎを見(み)失(うしな)うと定義しているのだ。

  「牧師になるといいねぇ。毎日聖書を勉強し、毎日聖書をあちこちでお話して…。」こう言われるのはまだ良いほうで、悪い見方をする人は「牧師はいいなあ。一週間に一回だけ、月に四回礼拝でお話して、それで生活できるんだから、こんな楽(らく)な仕事はないなあ。」ということを口にする。しかし、牧師は身体の病気を治す医者以上に一年中、四六時中、休みのない働きである。(続)

 

  ◎ 暗誦聖句 コリント前書一章一八節
それ十字架の言は亡ぶる者には愚(おろか)なれど、救わるる 我らには神の能力(ちから)なり。


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