◆ ロマ書の学び(376)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年五月八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  私たちが日本にいても、外国を旅行していても、そこは神様の御(み)国(くに)である。日本だけが神様の国ではない。神様は全世界をご支配なさっているから、どこにいても私たちは神様と共にあるのだ。神様がご支配下さるなら、そこは平安な場所なのである。

  曩(さき)にかれらに言(い)いたまいけるは此(こ)は安息(やすみ)なり。疲困者(つかれたるもの)にやすみをあたえよ。此(こ)は安慰(なぐさめ)なりと。されど彼(かれ)らは聞(きく)ことをせざりき
    イザヤ二八章一二節

  イスラエルの民は真の神様を崇め、豊かな祝福にあずかりながら、神様から心が遠ざかった。彼らは外見上は宗教熱心であった。戒(かい)律(りつ)を守り、儀式を守った。けれども彼らの心は、神様から遠く離れていた。人間は、体、外側以上に神様に心がつながっていないといけないということを表わす。神様に心が向いていない時に、人間はどんなにお金を払っても心の平安を買うことはできない。

  わが霊魂(たましい)よなんぢの平安(やすき)に帰れ。主は豊(ゆた)かになんぢを待(あしら)いたまえばなり
   詩篇一一六篇七節

  大勢の人々と一緒にいることは本当の平安ではない。心の平安は自分一人で部屋にいても、大勢の中に交わっていても、いつでも心に安らぎが持てること、これが本当の意味の平安だと思う。

  神様は、最も良いものをもって神様を愛する皆さん一人一人を祝福しようと願っていらっしゃる。私の言葉ではなく、聖書ははっきりとそれを教えている。どんなことも、神様のお許しなくして何一つ起こらない。

  私には長い間、思い煩(わずら)いがあった。若い頃は、これから将来どんな仕事に就(つ)こうか、どういう大学に入ろうか、どういう人と結婚しようか、どういう家庭を持ちたいか。それこそ、もういつも不安と、疑いと、恐れがあった。クリスチャンになれば、すべてそういうものはなくなるかというと、そうではない。最近ようやく、そういう思い煩(わずら)いから解放された感じがする。

  例(たと)えば、牧師は世界中どこの牧師もそうだと思うが、「大きな会堂を建てたい。」そして、「毎週入(はい)りきれないほど大勢の人たちの前で神様の御(み)言(ことば)を大声を張り上げて説教したい。」という誘惑がある。しかし、日本では大半の教会ができない。伝道者は先ほど申し上げたスポルジョンの言った「伝道者の落胆病」という挫折(ざせつ)を経験し、伝道者をやめていっている。

  もちろん私も若い時には大きな教会で、多くの人たちに福音を語りたい、という願いがあった。しかし、今は大勢の人が集まってくるのも神様の御(み)手(て)のうち、御(み)心(こころ)のうち、例(たと)え一人でも求める魂がいるならばその人に全精力を傾けて福音をあかしする、これもまた伝道者のつとめだと思っている。(つづく)

 

  ◎ 暗誦聖句 コリント前書 一章一八節
それ十字架の言(ことば)は亡(ほろ)ぶる者には愚(おろか)なれど、救はるる我らには神の能力(ちから)なり。


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