◆ ロマ書の学び(380)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年六月五日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  我(われ)ケンクレヤの教會(きようかい)の執事(しつじ)なる我(われ)らの姉妹(しまい)フィベを汝(なんじ)らに薦(すす)む。なんぢら主(しゆ)にありて聖徒(せいと)たるに相應(ふさわ)しく彼(かれ)を容(い)れ、何(なに)にても其(そ)の要(よう)する所(ところ)を助(たす)けよ、彼(かれ)は早(はや)くより多(おお)くの人(ひと)の保護者(ほごしや)また我(わ)が保護(ほご)者(しや)たり。
    ロマ書一六章一〜二節

  英語と日本語、また新改訳と文語体とを比らべてみると、少しだけ名前の読み方が違う。たとえば、フィベは、最初英語で読むとPhoebe、フォエベなどと読んでしまう。日本語の聖書はどちらかというとギリシャ語、原語に近い発音とかで、英語のほうは英語的な読み方のようである。また、日本語ではプリスカとアクラと発音しているが、英語ではプリシラそしてアキュラになっている。アキュラは日本にもあきらという名前があるので覚えやすいが。日本語のエパネトは、エペネタスとなっている。

  ところで、皆さんは聖書の中の大切な出来事の中には、名前が出ている場合と出ていない場合があることにお気づきだろうか。例えば、イエス様に五つのパンと二匹の魚を差し上げたあの男の子の名前は聖書に出てこない。特に名前の書いていないところには、霊的な適用として自分の名前を入れることが大事だと思う。

  例えば、五つのパンと二匹の魚を提供した少年に私の名前を入れる。ロマ書一六章一節のフィーべははっきりと名前が、ここに書いてあるが、ケンクレアの教会の執事であったと書いてある。私たちの教会でも神様に祈って女性執事を与えられている。

  執事(英語でディーコン)とは仕(つか)える者、サーバントと同じ意味である。群れの上に立つ者ではなく、病んでいる魂、傷ついた者をうしろから押し上げ、手当てをしながら行列から脱落しないように支えていく者のことをさす。また、使徒行伝では不公平の出ないように食べ物を配ったり手伝うという記事の所に出てくる。執事という働きのため、「教会において自分たちも執事の働きができるように訓練を与えてください。」と祈っていただきたい。聖書が示す執事の働きは、自分たちが計画して皆さんに働いてもらうように命令するのではなく、まず自分たちが率先(そつせん)して仕(つか)えることではないだろうか。                  ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句  詩篇八四篇一〇節
なんぢの大庭(おおにわ)にすまう一(いち)日(にち)は千日にもまされり


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