◆ ロマ書の学び(383)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年六月二六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  プリスカとアクラとに安否(あんぴ)を問(と)へ、彼(かれ)らはキリスト・イエスに在(あ)る我(わ)が同勞者(どうろうしや)にして、わが生命(いのち)のために己(おのれ)の首(くび)をも惜(お)しまざりき。彼(かれ)らに感謝(かんしや)するは、ただ我(われ)のみならず、異邦人(いほうじん)の諸教會(しよきようかい)もまた然(しか)り。
      ロマ書一六章三〜四節

  プリスカとアクラは旅人をもてなす事においてたいへん優(すぐ)れた働きをしていたようだ。パウロは伝道のさなかに迫害を受け、時には石で打たれ、時にはムチで打たれ傷だらけになった。疲れきって傷ついた伝道者パウロを手厚く看護し、世話をしたのがプリスカという女性であった。

  しかも、このプリスカはイエス様を大変愛し、神様に仕えることを喜びとしていたので、ご主人の世話をするかたわら、パウロの世話をし、さらに聖書を一生懸命に勉強した。また、御言葉の学びと同時に自分の家を開放したのである。自分の家を開放するというのは大変なことだと思う。

  大きな家ならば雑物を片付けて一つの部屋を集会に使うことができよう。しかし、よほど経済的に恵まれていなければ大きなリビングルームをとることができないので、絶えず集会を持てるように家を整頓することは主婦としては大変な労苦であろう。

  流山でもカクラン先生が集会所を一緒に使っていらっしゃる。皆さんはあまり感じないかも知れないが、私は申し訳ないなと思う。生活するということは、皆さんも思いあたるだろうが、買い物や本などを、あっちこちにポンと置いたりする。しかし集会に使うとなると、そこはいつも空(あ)けておき、綺麗にしておかなければならないので気をつかう。

  「家庭集会の場を提供してほしい」と、伝道部会の人がお願いしてもほとんど誰も手を挙げない。理由は、「うちはちらかっているから。狭いから。片づけが大変だから。」である。「たまに家庭集会をやってもらうといいです、綺麗(きれい)になって。」などと言うのはご主人だけ、奥さんはそうは言わない。家を開放して集会を持つのは主婦にとって大きな負担であろう。にも関わらず、アクラとプリスカは喜んで自分の家を開放し家の教会を持った。彼らは行く先々で同じ事をやったようである。               ( 続 く )

 

  ◎暗誦聖句   詩篇二七篇一〇節
わが父母われをすつるとも、エホバ(主)われを迎えたまわん


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