◆ ロマ書の学び(385)
プリスカとアクラとに安否(あんぴ)を問(と)へ、彼(かれ)らはキリスト・イエスに在(あ)る我(わ)が同勞者(どうろうしや)にして、わが生命(いのち)のために己(おのれ)の首(くび)をも惜(お)しまざりき。 今日、どこの教会においても、牧師や宣教師が孤独な戦いをしている。そして四六時中襲ってくる霊的な戦いと攻撃、あるいは悩む信者の苦悩のために祈っている。そういう時に「牧師、宣教師だけの働き、苦しみではなく、私たちも共に祈り、共に戦いに参加しています。」という一人一人のクリスチャンの励ましの祈りがどれ程大事であるか、痛切に感じている。 皆さんが伝道者、献身者に大変心をつかってくださっていることを感謝している。誕生日とかクリスマス、あるいは大きな記念日にお祝いくださるのは感謝なことである。しかし、それ以上にお願いしたいことは、毎日の皆さんの祈りの中で伝道者、宣教師のために祈りのとりなしをしていただきたいことだ。 ここまでフィーベあるいはプリスカとアクラという女性、男性について考えてきた。奉仕する、仕(つか)えるというと「クリスチャンは一所懸命に働かなければならない、奉仕しなければならない。」という強迫観念が襲ってくるのは良くない事だと思う。クリスチャンの奉仕は強制されてするのではなく、心からよろこんでするということが大変大事なことなのである。 あなたが始発電車に乗り、疲れてもいるので空(す)いている席に座ったとしよう。いくつかの駅を過ぎ、あなたの前に赤ちゃんを背負った婦人がつり革につかまって立った。都合(つごう)が悪いと思い狸(たぬき)寝(ね)入(い)りをする。隣のおばあさんから「チョット、若い人。座席を空けなさいよ。」と言われてから立つのはいやであろう。恥ずかしい。席を立つタイミングは難しい。「ああ、大変だな。」と思ったらスウーっと席を立つ、これがタイミングとして重要である。 ところが、混雑の車中にこれから五時間あるいは七時間も電車に乗っていかなければならないとしたら、そばにそういう人に立たれると困る。そこで、多分こう聞くと思う、「どちらまで?」。(いやしまった、聞くんじゃなかった。)七時間も立つのだと思うとなかなか空(あ)けにくい。でも、本当に助けてあげたいなあという最初の思いが大事なのではなかろうか。 ( 続 く )
◎ 暗誦聖句 テモテ後書四章二節
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