◆ ロマ書の学び(386)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年七月一七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  なにゆゑ糧(かて)にもあらぬもののために金(かね)をいだし、飽(あく)ことを得(え)ざるもののために勞(ろう)するや。われに聽(きき)從(したが)え、さらばなんぢらよき物(もの)を食(く)らうをえ、脂(あぶら)をもてその靈魂(たましい)をたのしまするを得(え)ん
            イザヤ書五五章一〜二節

  教会には、多種多様な奉仕がある。最近は土曜日の奉仕者が少ないので、伝道者が汗を流して聖日の準備をしている。しかし、できれば月曜日の奉仕者だけでなく、土曜日にお休みがある人は、土曜日に奉仕に来ていただきたい。一時間でも二時間でも、日曜日の準備に加わっていただきたいと思う。もちろん、そうしなければ救いを失うという意味ではない。救いが自分の働きによって得たものではない、ということはもう一度確認していただきたい。しかし、それは「イエス様を信じて救われたら、何もしないで良い。」ということではない。私たちは、救われた後に、感謝の思いで神様にお仕えするのだ。それが奉仕である。

  奥さんたちの中には、ご主人に対してあまり愛情を持っていないけれど、ご主人のために食事を用意しないとうるさいからと食事の準備をすることがあるかもしれない。うるさいからと強制的にやる時、あまり美味(おい)しいご馳走は出来ないであろう。心を込めてご主人のために料理を作れば、一品でも二品でもご主人は喜んで食べ、疲れがふきとんでしまう気持ちになることだろう。一方、奥さんが「ほら、お茶。」などと荒っぽい態度をとれば、「何を怒っているんだ、お前。」となり、楽しい食事が楽しくなくなってしまう。

  すこしの物を有(もち)てエホバを畏(おそ)るるは多くの宝をもち て煩(わずら)いあるに愈(まさ)る。野菜を食(くら)いて互いに愛する は、肥(こ)えたる牛を食いて互いに恨(うら)むるに愈(まさ)る。
     箴言一五章一六、一七節

  睦(むつま)じうして一(ひと)塊(かたまり)の乾(かわ)けるパンあるは、あら そいありて宰(ほふ)れる獣(けもの)のみちたる家に愈(まさ)る。
         箴言一七章一節

  箴言(しんげん)には貧富の差が描かれている。肉のある家庭というのはお金持ち、野菜を食べるのは貧しい家庭である。肉のある食卓よりも野菜しか食べられない貧しい家庭であっても、愛情と信仰があるところには喜びが満ちた家庭であると描かれている。 神様に対する奉仕も同じである。強制されたり、そうしなければならないという教え、あるいは働きによって救われるというのは、聖書の救いではない。 ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三一篇三節A
なんぢはわが磐(いわ)わが城(しろ)なり


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