◆ ロマ書の学び(388)
彼らはキリスト・イエスに在る我が同勞者にしてわが生命のために己の首をも惜まざりき。 四〇年程前に日本で伝道なさり、今はアラスカで伝道していらっしゃるサップ宣教師から以前、祈りの手紙がとどいた。中に印象に残る内容があった。 「私はデービッド・ラブ(ユダヤ教のラビをしていた人で、今はラビを辞(や)めた人)に証をしようとした。するとデービッド兄弟は、じっと私の目を見て『カール。あなたが私に話していること、あなたはそのために死ぬことが出来ますか?喜んで死ぬことが出来ますか?』と聞いてきた。そこで、私は『神様の恵みによって、信じることのために私は喜んで死にます。』と言った。もとラビであった兄弟は『よろしい。ではあなたの言うことに耳を傾けましょう。』と言った。」というのだ。 私たちは、自分が信じるイエス・キリストの救い、イエス様の救い、そのことのために死ぬことができるか、どうか。フィーベもプリスカもアクラも自分が信じるイエス・キリストの十字架のために命を賭(か)けることが出来た人たちであった。 イエス様を愛する愛、「イエス様のために、その福音のために私は死ぬことが出来る。」そういう確信があって初めて私たちの証にも力が出てくるし、祈りにも力が出てくるのである。あなたはイエス・キリストの十字架の福音のために命を賭(か)けることができるであろうか? 私はそれぞれがイエス様の福音のために命を賭けるという確信を持つことができるように、と切に祈っている。日々、神様の憐(あわ)れみと祝福をいただいて主にお仕(つか)えし、また証を続けることができますように。できるならば、一人でも多くの方をイエス・キリストの救いに導くことができますように。心の頑(かたくな)な友人や家族に対しても愛をもって接し、心から仕え、愛の福音を伝えることができますように、と祈る毎日である。
われら生(い)くるも主(しゆ)のために生(い)き、死(し)ぬるも主(しゆ)のために死(し)ぬ。然(さ)れば生(い)くるも死(し)ぬるも我(われ)らは主(しゆ)の有(もの)なり。=@
我(われ)キリストと共(とも)に十字架(じゆうじか)につけられたり。最早(もはや)われ生(い)くるにあらず、キリスト我(わ)が内(うち)に在(あ)りて生(い)くるなり。今(いま)われ肉體(にくたい)に在(あ)りて生(い)くるは、我(われ)を愛(あい)して我(わ)がために己(おの)が身(み)を捨(す)て給(たま)いし神(かみ)の子(こ)を信(しん)ずるに由(よ)りて生(い)くるなり。
◎暗誦聖句 詩篇三七篇三節 前半
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