◆ ロマ書の学び(390)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年八月二十八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 

兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。かかる者は我らの主キリストに事(つか)えず、反(かえ)って己(おの)が腹に事(つか)え、また甘き言(ことば)と媚諂(こびへつらい)とをもて質朴(しつぼく)なる人の心を欺(あざむ)くなり。汝らの従順は凡(すべ)ての人に聞こえたれば、我なんじらの為に喜べり。而(しか)して我が欲する所は汝らが善に智(かしこ)く、悪に疎(うと)からんことなり。平和の神は速(すみや)かにサタンを汝らの足の下に砕(くだ)き給(たも)うべし
  ロマ書一六章一七〜二〇節

  特に一七節が今回の中心的な学びとなってくる。特に新約聖書の中では「兄弟」とか「姉妹」という言葉が書簡の中に出てくる。かつて、テレビで、競艇、モーターボート・レースのスポンサーであった人が「世界同胞、人類はみな兄弟!」などと宣伝をやっていた。ご記憶の方もいらっしゃると思うが、世界中の人間はみんな兄弟であり姉妹であるという大変美しい表現には違いない。けれどもこの聖書の表現からすると、それは大きな間違いであるということがわかる。神様のお言葉は、決して世界中の人たちが兄弟姉妹であるとは表現していない。イエス様を信じ、救われた人たちだけが神の家族であり、その人たちが兄弟姉妹であるというのだ。

  常識的に考えても、電車に乗っている知らない人に「よう、兄弟!」などと言ったらはじき返されてしまうだろう。兄弟姉妹というのは自分の直接的な家族のことをいう。教会に初めて出席された方は、A兄弟とかK兄弟とか言い合うのを聞いて「この教会はずいぶんと兄弟が多いなあ。」と思われたかもしれない。しかし、実はイエス様を信じて同じ信仰を与えられた人たちのことをさして兄弟、姉妹と呼んでいるのだ。これは、自分たちはイエス様を信じて同じ家族の一員とされたという意味合いを含んでいる。

  『兄弟よ。』使徒パウロはローマにいたクリスチャンたちに対してこうして呼びかけた。「私の愛する兄弟よ。同じ信仰によって救われ、イエス様の十字架を仰(あお)ぎ見て罪赦(ゆる)された、愛する人たちよ。」と呼びかけ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離を生じ…≠ニ続いていく。信仰は、イエス様の十字架を見上げてその罪が許された、イエス様が私の身代わりになって死んで下さったことを信じ救われた、というだけではない。新約聖書の中ではたびたび「学ぶ」ということを勧(すす)められている。信仰は、毎日毎日成長する過程である。私たちはイエス様を信じたといっても、即、イエス様の全てを理解するわけではない。  (続く)

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三七篇五節
なんぢの途(みち)を主(しゆ)にゆだねよ 彼(かれ)によりたのまば之(これ)をなしとげ


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