◆ ロマ書の学び(397)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年一〇月一六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  兄弟(きようだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、躓(つまづ)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。
   ロマ書一六章一七節

  しかも、現代は世界中の教会が手をつなごうではないかという風潮の時代である。よその教会に行ってみればわかる。その教会で牧師が語る言葉は、果たして正しい聖書の解釈と聖書の御言葉を大胆に、率直に、間違いなく語っているだろうか。「聖書はこう書いているけれども、私はこう考える。」とか、「もっと若者たちを集めるために現代風の音楽を使おうではないか。」という教会がふえている。それは決して正しいことではない。

  内村(うちむら)鑑三(かんぞう)という伝道者がいた時代に、日本の教会は荒(あ)れすさんでいて、東京のYMCAでビール飲み大会をやっていたとか。もともとはYMCAはクリスチャンの集まりであったはずだのに、人々を集めるために、ビール飲み大会やダンスパーティをやったりして堕落(だらく)していったのである。

  だから、内村鑑三師は「あんな風に堕落するならば、教会はいらない。」と言った。それが無教会主義の発端(ほつたん)であるという。確(たし)かに内村鑑三という伝道者は、北海道で勉学に励(はげ)み日本中に覚醒(かくせい)を与(あた)えた。だからいまだに、日本には無(む)教会主義という集まりがある。けれども彼は、その熱心さ、ピューリタン的な思想があまりにも極端(きよくたん)に狭まってしまって、聖書全体の骨格からはずれてしまった。

  神様は、どんなに堕落(だらく)していたコリントの教会でも、「コリントの教会は堕落しているから、いらない。」とか、教会は必要ではないとおっしゃらない。神様が働かれるのは、教会を通(とう)してである。もちろん神様は、教会が完璧(かんぺき)でないことはご存知(ぞんぢ)である。

  そこに集(つど)うクリスチャンの各自が、牧師や宣教師の言っていることが聖書の教えに合致(がつち)するかどうか、正しい教えかどうか、聖書を学んでいただきたい。ベレヤの信者のように、毎日聖書を学んで確(たし)かな信仰に立っていただきたい。もしも、「あの講師のおっしゃったことは、どうもおかしいのではないか。」という疑問(ぎもん)がわいてきたなら、牧師か宣教師に講師のお話の意味を確認してほしい。

  仮に、私か伝道者が、聖書以外の異端(いたん)といわれる教えを持ち込もうとしたならば、教会の献身者、執事におねがいしてこの教会が正しい信仰に立つように皆で祈って、善後策を検討して頂きたいと思う。私は一九三二年生まれであるから、いくらがんばったところであと一〇年、長くても一五年ご奉仕出来るかどうかだ。私はメトセラではないから九〇〇歳までは生きないので、ご安心くださいというか、ご心配いりませんからというべきか…。                 ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四一篇三節前半
主(しゆ)は彼(かれ)がわづらひの床(とこ)にあるをたすけ給(たま)はん (なんぢかれが病(やめ)るときその衾?(ふすま)をしきかへたまはん)


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。