◆ ロマ書の学び(403)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年一一月二十七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  神様のお建てになる教会、それは、人々を救いに導く力を持つ教会でなければならない。主(しゅ)イエスを信(しん)ぜよ、さらば汝(なんじ)も汝(なんじ)の家族(かぞく)も救(すく)わるべし。≠ニいう、あの使徒行伝一六章三一節の御言葉のように、イエス様を信ずることによってその魂が救われ、更にその人は自分の家族に福音を伝えていくのである。

  使徒行伝の一章八節を見ると然(さ)れど聖霊(せいれい)なんじらの上に臨(のぞ)むとき、汝ら能力(ちから)をうけん≠ニある。聖霊が私たちを導いてくださる時に、聖霊の力によって私たちは全世界に出て行って、イエス・キリストの福音の証人となるのである。クリスチャンの働きは何かというならば、自分が幸福になるということが最大の眼目(がんもく)ではない。ここで皆さんに考えていただきたい。「なぜあなたは、教会に来たのか?」「なぜあなたは、クリスチャンになったのか?」その問(と)いに対して、もし「幸(しあわ)せになるためだ。」と答えるならば、それは間違(まちが)いである。

  「聖書の中心は何か?」と聞かれて「それは人間が幸福になるための手引きだ。」と答えるなら、それも違(ちが)う。使徒パウロはロマ書一章において、聖書の中心はイエス・キリストであると明確(めいかく)に書いた。聖書の中心は人間の幸福ではない。イエス・キリストの御(み)栄(さか)えのためであると、はっきりと書かれている。

  私たちは、あまりにも人間の救いということにポイントを置きすぎているのではないか。もっと神様の御(み)栄(さか)えをあらわすように、私たちは神様のご栄光をあらわすために創(つく)られた被造物(ひぞうぶつ)であるということを忘れてはいけない。

  まず、神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義(ぎ)とを求(もと)めよ。=iマタイ伝六章三三節)と、イエス様はおっしゃった汝(なんじ)、心(こころ)を尽(つ)くし、精神(せいしん)を尽(つ)くし、思(おも)いを尽(つ)くして汝(なんじ)の神(かみ)を愛(あい)すべし。=iマタイ伝二二章三七節)と、神様は仰せになられたのだ。すべての物をお創(つく)りになった真(まこと)の神様を愛する、神様をあがめ、神様をほめたたえる、これが全人類の最大の義務であり、祝福である。

  然(さ)れど彼(かれ)すなわち真理(しんり)の御霊(みたま)きたらん時(とき)、なんじらを導(みちび)きて真理(しんり)をことごとく悟(さと)らしめん。
              ヨハネ伝一六章一三節

  今の時代、私たちは聖霊(せいれい)の内住(ないじゅう)をいただく。そして、聖霊の導きを頂(いただ)いて日々の生活に力をいただく。

   第二に、「教会の力はどこにあるのか?」

  平和(へいわ)の神(かみ)は速(すみ)やかにサタンを汝(なんじ)らの足(あし)の下(した)に砕(くだ)き給(たも)うべし
 ロマ書一六章二〇節

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四六篇一節
神(かみ)はわれらの避所(さけどころ)また力(ちから)なり なやめるときの最(いと)ちかき助(たすけ)なり


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