◆ ロマ書の学び(405)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年一二月一一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  兄弟(きょうだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生じ、躓(つまず)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。

かかる者(もの)は我(われ)らの主(しゅ)キリストに事(つか)えず、反(かえ)って己(おの)が腹(はら)に事(つか)え、また甘(あま)き言(ことば)と媚(こび)諂(へつらい)とをもて質朴(しつぼく)なる人(ひと)の心(こころ)を欺(あざむ)くなり。

汝(なんじ)らの従(じゅう)順(じゅん)は凡(すべて)ての人(ひと)に聞こえたれば、我(われ)なんじらの為(ため)に喜(よろこ)べり。

而(しか)して我(われ)が欲(ほっ)する所(ところ)は汝(なんじ)らが善(ぜん)に智(さと)く、悪(あく)に疎(うと)からんことなり。
    ロマ書六章一七〜一九節

  お金持ちが教会を作るかというと、そうではない。かえってお金持ちの献金は教会の成長のじゃまになることさえある。何故ならば、お金持ちは自分が献金しなければこの教会はつぶれるという傲慢(ごうまん)さを知らず知らずのうちに持ってしまうからだ。すべてのお金持ちがそうではないが、お金は人間の心を動かす。お金は人間の魂をさえ奪(うば)うことができる。

  『ファウスト』という小説をお読みになったことがあるだろうか。あの小説を読むと、人間がいかにお金や富に対して弱いかということがわかる。

  仮に、この教会に毎月一五〇万円の献金をする人がいたとする。知らず知らずのうちに、それが誰だか分かってくる。私は会計帳簿を見ていないから、どなたがどれだけささげてくださっているか、わからない。もし、牧師が毎週チェックして「今週は○○さんが何万円ささげた。」とわかったとすると、牧師はその人のところにあいさつに行くだろう。

  これは、神様の御言葉をのべ伝える者としてふさわしくない態度(たいど)である。私たちはどうしても、たくさん献金をささげる人に心がいってしまう。心がいくと、やたらとペコペコするようになる。その人のご機嫌(きげん)をとるようになり、教会が、恵まれない人たちに対して粗野(そや)になることが使徒行伝に書いてある。教会が不公平になってはいけない。すべての人に公平に仕(つか)えるようにと、教会に執事がおかれるようになったのである。

  私たちは、数が多くなる、あるいはお金持ちの人たちが多く集まるというと、どうしてもそれが強い教会と考える。しかし聖書は、そうではないと言う。

  まず第一に、「この世から分離をせよ」。神様に聖別された人だけの集まり、これが教会の力となる。人間の価値観、はかりで量(はか)ってはいけないと神様はおっしゃる。では神様は、何を基準となさるのだろうか。「服従」である。私たちは神様の御言葉に忠実に従うということがなければ、どんなに立派な建物が建っても、どんなに多くの人々が集まっても、それは教会にとって正しい意味での証(あかし)にはならない。
      (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四八篇九節
神(かみ)よ我(われ)らはなんぢの宮(みや)のうちにて仁慈(みいつくしみ)をおもえり


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