◆ ロマ書の学び(406)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇一一年一二月一八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  イエス・キリストを宣(の)ぶる事(こと)とによりて、汝(なんじ)らを堅(かと)うし得(う)る、 唯一(ゆいいつ)の智(かしこ)き神(かみ)に栄光(えいこう)、 世々(よよ)限(かぎ)りなくイエス・キリストに由(よ)りて在(あ)らんことを、アァメン。
      ロマ書一六章二七節

  この習志野バプテスト教会の建物は、皆さんが祈りながら、二〇年以上かけてささげ物をして、ようやく建(た)った。しかしこの建物は、決して自慢(じまん)すべきものではない。確(たし)かに私たちの信仰の証(あかし)であった。けれども、私が毎年行くフィリピンや開拓伝道の地では、壁はなく、屋根は椰子(やし)の葉っぱでできた風通しのよいのが教会である。そういう所でも、クリスチャンたちは一生懸命伝道をし、魂が救われている。「ああ、これが教会だ。」と思う。

  建物が教会ではない。神様の御言葉によって救われ、喜びに満(み)ちた、エネルギーに満ちた信者の姿、召し出された人たちの集まりこそが教会なのである。実際には、建物などなくてもよいのだ。この私たちの教会が建(た)った時、毎月のように見せてほしいという方がいらっしゃった。神様のあわれみを証(あかし)する意味では感謝だが、建物が教会ではない。

  私はむしろ、建物を見せてほしいという方に、日曜日に皆さんの顔を見てほしいと思う。ここに集まる人たちは、失礼ながら億万長者(おくまんちょうじゃ)ではない。しかし、神様を信じ、イエス様を愛し、イエス様に従っている人たちである。その人々の信仰の証を見てほしい。クリスチャンの喜びにあふれた顔を見てほしいと思う。

  されど神は智(かしこ)き者を辱(はずかし)めんとて弱き者を選び、有る者を亡(ほろぼ)さんとて世の卑(いや)しきもの、軽んぜらるる者、すなわち無きが如(ごと)き者を選び給(たま)えり。
   コリント前書一章二七、二八節

  汝(なんじ)等(ら)みづから心(こころ)せよ、又(また)すべての群(むれ)に心(こころ)せよ、聖靈(せいれい)は汝(なんじ)等(ら)を群(むれ)のなかに立てて監督(かんとく)となし、神(かみ)の己(おのれ)の血(ち)をもて買(か)ひ給(たま)いし教會(きょうかい)を牧(ぼく)せしめ給(たも)う。

われ知る、わが出で去るのち、暴(あら)き豺狼(おおかみ)なんぢらの中(なか)に入りきたりて、群(むれ)を惜(おし)まず、又(また)なんぢらの中(なか)よりも、弟子(でし)たちを己(おのれ)が方(かた)に引(ひ)き入(い)れんとて、曲(まが)れることを語(かた)るもの起(おこ)らん。

されば汝(なんじ)ら目(め)を覺(さま)しをれ。…われ今(いま)なんぢらを、主(しゆ)および其(そ)の惠(めぐみ)の御言(みことば)に委(ゆだ)ぬ。

御言(みことば)は汝(なんじ)らの徳(とく)を建(た)て、すべての潔(きよ)められたる者(もの)とともに嗣(し)業(ぎよう)を受(う)けしめ得(う)るなり。

…我(われ)すべての事(こと)に於(おい)て例(れい)を示(しめ)せり、即(すなわ)ち汝(なんじ)らも斯(か)く働(はたら)きて、弱(よわ)き者(もの)を助(たす)け、また主(しゆ)イエスの自(みずか)ら言(い)ひ給(たま)ひし「與(あた)ふるは受(う)くるよりも幸福(さいわい)なり」との御言(みことば)を記憶(きおく)すべきなり』
   使徒行伝二〇章二八〜三四節

    (ロマ書講解メッセージ終)

 

  ◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章三三節


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。